数パーセントの学生にしか効果のない授業改革は本当の改革とは言えない(前)

「崖っぷち弱小大学物語」の感想、続き。

気になったところのもう一つは、「弱小大学」にて授業を活性させる試みがいくつか紹介されているのですが、たいてい「残念ながら数パーセントの学生しか乗ってこない」とある。「それでも数パーセントでもやる気を示す学生がいるとうれしい」と続く。

そりゃちょっと御自身の「試み」に対する評価が甘すぎるんでは‥?

数パーセントの割合でやる気のある学生が存在するのは当たりまえなんですよ。その数パーセントが反応するようなちょっとした試みをやるのはもちろん悪いことではありません。良い学生を伸ばしてやるのは重要なことですから。

でも、そんなことはたいてい誰でもやっていることだし、むしろ、今までの日本の伝統的な大学教育の欠点は、そういう「一部の向上心のある学生」をかわいがり、それらと比べて、ついてこない学生を「やる気がなくて駄目だ」と、あきらめを以てないがしろにしてしまう、そういうところにあったし、今も同様の問題は蔓延していると思う。学生による授業評価に否定的な教員にかぎって、やる気のある出来の良い学生を「理想の学生」として考え、それらの学生に自分の授業の受けが良いことを根拠に、自分の授業または自分を低く評価する学生を、「教員を診断する資格のない学生だ」と切って捨ててしまう。「崖っぷち弱小大学物語」の筆者がそうだと言っているわけではなくてですね、そういう教員はまだまだたくさん存在するわけで、そんな中、もともとやる気のある学生だけしか反応しない「活性化の試み」を挙げられても、それでは改革にはならないと思うんですよ。

そういう「やる気のある学生をよりやる気にさせる試み」というのは決して無駄ではないし、どんどんやるべきだとは思うけど、「弱小大学」が生き残るにはその程度の提言じゃ話にならない。上澄みではなく、中間層にあたる学生、もっとも典型的で平均的で多数を占める学生のパフォーマンスを底上げするような、そういう効果のある「試み」をしなければ改革とはいえない。

筆者は、たとえば、以下のような自身の「試み」を紹介しています。人間の集中力はなかなか90分続かない。だから60分ぐらいのところで息抜きに「コマーシャル」を入れるようにする。この提言自体は、まあ、穏健だけど良いと思うんですよ。で、筆者がどういう「コマーシャル」を入れるかと言うとですね、「私のコマーシャルは自分の著書をふくめた参考図書の紹介が主だ。講義の内容と無関係ではないが直接には結びつかない。でも『面白くてためになる』、しかも読みやすい本を紹介するのである」(p90)という。そして、ただ紹介するだけでは誰も読まないから(当たりまえ)、感想文を書いてもってくれば読んでコメントをつけて返すし、出来具合に応じて期末試験にボーナス点を与えると学生に伝える。ここまで読んで、

甘い。ルノアールのココアより甘い。

と思った貴方はまともな教員です。まず第一に、本の紹介なんて「コマーシャル」のうちに入らない。オレが学生だったら、本の紹介されたって退屈な授業の一部としか考えないね。第二に、「感想文をもってきたらボーナス点」なんてめんどくさいことに学生が食いつくわけがない(ゼミならまだしも)。案の定、「残念ながら、そんな挑発に乗ってくれる学生はわずかだ。毎年四○〜五○人に一人ぐらいしかいない。」(p91)‥そりゃあたりまえですよ。

(つづく)