記名式授業評価?

授業評価の季節ですね。あの授業評価は匿名だと好き勝手いい加減な気持ちで書くから記名式にするのが良い落としどころだという意見を時々聞きますが、オレは全然賛成できないね。

例えば、不真面目で駄目で不遜な態度の学生がいたとして、その学生は大学の授業のすべてを嫌っているだろうか? そんな彼・彼女にも「この授業はそんな嫌いでもないか」と思う授業も1つや2つはないだろうか。あったとしたら、その「そんな嫌いでもない」授業と、「クソつまんねー!」と思われている自分の授業との間にある差は何なのか。その学生は「そんな嫌いでもないか」という授業を評価する権利はあっても、「クソつまんねー!」と思っている大半の授業を評価する権利はないのだろうか。「評価する権利はあるけれども、本当に自分にこの授業を評価する資格があるのか、よく考えて、しかるのちに評価しなさい」とプレッシャーをかける意味は何なのか。

要するに、自分の授業を評価してくれている学生にのみ授業評価してほしいと思ってるだけでしょ。

でもねえ、「クソつまんね!」と思う学生の存在も含めて、それが現実だと思うんだよね。その現実を漂白して、「授業について真面目に考えてくれる学生の意見のみ聞きましょう」って言うのってどうよ?

授業評価ってのは、「クソつまんね!」と思っている学生を排除して初めて有用になる、というものじゃないと思うのよね。そうじゃなくて、「クソつまんね!」と考える学生の存在を現実としてきちんと受け止めて、そのうえで、そういう学生を評価者の母体から排除するのではなく、評価者の母体の全体から見ていかにそういう学生を「少数派」にするのか、そこに腐心するべきなんですよね。そのための努力目標として利用するもの、それが授業評価の数値だとオレは思います。経験では、評価者の2/3が5段階評価で5または4をつけてくれると、平均で評価4を超える。そこ目指して頑張れば良いのであって、不真面目な学生の意見を授業評価から排除することを考えてもしょうがない。

ところで、オレのまわりにもいるけれども、「いい加減な気持ちで回答している学生が多いし、授業評価の数値なんて何の意味もない」と公言する教員が多いのには驚く。評価平均2.5の授業と評価3.5の授業と評価4.5の授業があったとして、その数値は何も語ってないと、学生のきまぐれで決まるものだと、本気で思っているのだろうか。そりゃ現実逃避ってものです。