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思想的構築物としての日本人

斜め上から言葉を投げ捨て、【な】です。

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まともな言説はうさたろうさんのようなまともな人にお任せして、今日も今日とてまともとは言えない言葉を紡ぎだすオレです。

オレが虚構だとかフィクションだとか言ったのは、神社や右派の思想だけを指していたのではなく、すべての文化や思想、そしてすべての「共同体」についてのことなんですけどね。これらのものは仮想的なものなのであって、これが「実体」であると勘違いするとおかしなことになるわけです。

では、仮想でない、虚構でないものとは何かといえば、個人の身体反応であると思います。例えば、ある感情がわき起こったとき、その感情に対する解釈はすでに仮説に過ぎないのですが、感情がわき起こったこと自体はおそらく身体的な生化学反応として確かに存在する。個の感情そのものこそ、証明不要の真実なのであります。

ですから、kous37さんが靖国に参ると安らぎを感じるというのはkous37さんにとってまぎれもない「真実」であるとオレは考えます。しかし、「個」の先にあるものはフィクションであり仮説でありイデオロギーでしかない。

もちろん世界はこのような文化的・政治的・社会的イデオロギーの上に成り立っているわけで、そのようなフィクション・虚構を否定するつもりはまったくありません。もちろん切り捨ててもいませんしね。しかしそのような、思想的構築物にしか過ぎないものをアプリオリに実在する実体だと勘違いするのはどうだろうかと。

右派の人には国とか日本とか日本人とかいう思想的構築物を思想の外に実在する実体だと思っている人が多いような印象を受けるんですよね。それはロマンではあるが真実ではない。そしてその「信心」が右派の強みでもあり弱みでもあると申し上げたわけです。