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右往左往:そもそも右とは何か、左とは何か

ketketさんの「右往左往」のエントリシリーズ(?)には色々考えさせられます。で、思ったんですが、靖国や戦争について述べる人は多いけれども、そもそも右とは何なのか、左とは何なのかについては意外に見落とされているよなあ、戦争肯定なら右、否定なら左とか一般には短絡的に考えられているよなあ、と。そこでちょっと書いてみようと思いました。とはいえ、政治学にはドシロウトなのでなので、色々と間違っているところもあろうかと思いますが、そのあたりはご指導いただければと思います。

戦争を美化する者はいない

まず話のとっかりとしてとして触れたいのが、「戦争を美化する云々」という表現です。この表現は左翼、左派マスコミを初め世間一般で良く聞く表現ですが、どうも(半ば意図的に)問題の本質をずらした言葉であるような気がします。もちろん右翼だって「戦争を美化」なんてしません。戦争自体は多くの人の犠牲の上に成り立っている悲劇であるのは右翼にとっても同じであるからです。

ポイントは戦争がカッコいいとか美しいかとかではなく、国家と国民の関係をどうとらえるべきかというところにあるはずです。つまり、「国民が国家のために尽くし、必要あらば国家のために命もかける」ことをどの程度肯定的にとらえるべきなのか、そこが問題であるはずでありまして。

で、この問いに関しても肯定・否定という二項対立で割り切れるものではありません。左派だからといって国民が国家のために命をかけることに即否定的ということにはなりません。右派だからといって国民主権を即否定するわけではないのと同じです。とはいえ、肯定から否定にいたるスケールを考えた場合、肯定の極に向かうほど右で、否定の極に向かうほど左であるということは言えるかと思います。

右とは何か、左とは何か

ではそもそもこの問いに関して肯定の極が「右」、否定の極が「左」となるのはなぜでしょうか。その「分布」を生む背後のイデオロギーの差は何でしょうか。

これに関しては色々な答え方ができると思います。ちなみにオレ自身はここで、

国はロマンという観点から切り取ることもできるが、もっと動的な創造の過程として捉えることもできます。

と書いたんですが、これは右派と左派のイデオロギーの違いを書いたつもりなんですね。

ロマンとはすなわち伝統です。伝統は過去の人々の「生の歩み」の不純物を取り除いて純化した「美」であり、エッセンスであり、ロマンであります。

一方、「動的な創造の過程」とは、すなわち現在の人々の営みです。人々が伝統の影響を受けたり受けなかったり、時には破壊したり、あるいは進化させたりしながらもがく、エッセンスも不純物もないまぜの躍動的な生の営みです。

前者、つまり「伝統」に重きを置くのが保守主義 conservatism です。一方、後者、すなわち「人々それぞれの生の営み」に重きを置くのが自由主義 liberalism です。「自由主義」より「リベラリズム」の方が通りが良い気がするので「リベラリズム」とします。リベラリズムの在り方は実は非常に多様なので(例えば保守派の「小さな政府」思想は古典的リベラリズム(=リベタリアニズム)の強い影響下にあります)、オレごときが云々するのは非常に冷や汗ものなのですが、無知なりに続けさせていだたきます。ちなみに、究極の右であるファシズムと究極の左であるコミュニズムについてはここでは触れません。

ともあれ、保守が「伝統」という枠組みを上位に掲げ、人々がそれを尊重することを推奨するトップダウンの考えを基本とし、リベラリズムが「個々人の自由な生」に焦点を置き、政府はそれをサポートすべき存在であるというボトムアップの考えを基本とする、というのは確かであると思います。異論もあるかと思いますが、現時点のオレの理解では「右」と「左」のベクトルの違い、その基本はそこにあります。

右、左、それぞれにとっての戦争

さて、戦争について言えば、戦争とはすなわち外交の一手段です。リベラリズムと保守主義、それぞれにとって戦争とはどういう意味を持っているのでしょうか。考えてみました。(太平洋戦争のことは脇においておいて、今は一般論としての戦争を考えてみます。)

まず、リベラリズムの立場から考えてみます。長期的な視点にたって、戦争という外交手段が結果的に人々の自由な生に益をもたらすならば、戦争という外交手段はリベラリズムのイデオロギーと必ずしも対立するわけではないはずです。ですから左派・リベラルだからと言って戦争に即否定的ということにはなりません。よって、戦争を右左のリトマス試験紙に使うことはできないとオレは考えています。

ただ、リベラリズムは「人々の生」(人が生きる喜びを追求する権利)を重視する思想ですから、生きる権利を一時的に国に預ける戦争という外交手段は、*短期的視点*でいえばリベラリズムと矛盾すると言えると思います。

戦争と言う外交手段とリベラリズムのイデオロギーの間には、このようなせめぎ合いがあるわけです。一時的にも生きる権利を剥奪されるのでは真のリベラリズムとは言えないと言う極端な立場に立てば、「いかなる戦争も反対」という結論になります(注:ここで言っているのは「人の命は尊いから」という倫理論ではありません、念のため。あくまで「生きる自由」という観点での結論です)。というわけで、リベラリズムというイデオロギーには戦争と言う外交手段に対して様々な度合いで否定的になりうる要素を内包しているといえるかと思います。

だからといって他方の保守主義が戦争を「肯定」したり「美化」するイデオロギーであるというわけではもちろんありません。伝統を守るためには人々の力が必要なわけですから、人々をむやみに戦争の駒に使うことは保守主義のイデオロギーにも反するはずです。

しかし保守主義においては、伝統という枠組みの保守が重要なわけですから、国が一時的に国民の生を預かることについてはリベラリズムほどは内的矛盾を抱えていません。よって、保守主義を極端な方向に押し進めると、リベラリズムを極端な方向に押し進めたのとは逆に、「国のために命を捧げるのはむしろ栄誉なことである」という方向へと流れるかと思います。

とりあえずの結論

というわけで、極端に突き進めば左右は正反対の極へと振れるわけです。しかし穏健に考えれば、左だから即戦争反対、右だから即報国礼賛とはならないかと思います。

戦争一般をどうとらえるかについて迷いのある場合、戦争云々を横において、まず自分が立っている位置が保守主義よりなのか、リベラリズムよりなのか、一度考えてみると良いかもしれません。その上で戦争という外交手段が自分のイデオロギーの中にどの程度の整合性を持って融和させることができるのかを考えてみると問題の整理に役立つかもしれません。

とにかく靖国や太平洋戦争だけが右左の分け目として考えられがちな現況はちょっと異常ですよ。こんなときだからこそ、背後の思想についてちょっと冷静に考えてみる必要もあるのではないかと、自戒を込めて書き留めておきたいと思います。

で、オレ自身がどういう思想であるのかについてはまた日を改めて。