「下流志向」と消費者脳

スーパー同居人ちゃんが持っていた内田樹「下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち」をさらっと読みました。主に後半。けっこう分析は当たっていると思いますね。

下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち

下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち

とくに、以下のような主張。

  • 自己を消費主体としてとらえることがすべての分野に蔓延するようになったので問題が生じるようになった
  • 「自己を消費主体としてとらえる」というのは、つまり、すべての行動を「消費」ととらえるということである
  • 「消費」には対価(例えばカネ)を払って、それと等価の商品をタイムラグなしで受け取るという「無時間的」な行動である
  • 若い人が「安い給料でこきつかわれている」という愚痴を言うのを聞くようになったが、それは労働と等価の対価を即時(=無時間的に)得ることを期待しているからだ
  • 教育に対しても、「授業に出る」ことの「対価」を即刻(=無時間的に)求められるようになっており、社会も奨励している。
  • その結果、「何の役に立つかは今はわからないけれども、修行のつもりで学ぶ」という姿勢がなくなりつつある。
  • 「キレて」殺人を起こすような事件が昨今多いのも、高ぶった感情に対する即時的解決を求めるからではないか
  • 携帯も「インプット→即時的(無時間的)アウトプット」の象徴的存在である
  • 教育にしても労働にしても、もともとは即時的対価を得られるようなものではなく、長期的視点で見返りが来るものであり、即時的対価を得られると思って対峙すると人も社会も不幸になるだけである

などなど。

昨今の著作権論争における「著作権保護機構」の考え方もまさにこれですね。「曲を入手したり演奏したり歌詞を引用すれば、その分の料金を何が何でもきっちり徴収する」という考え方ね。JASRACがガメツくすべての著作利用に課金するのはこの「無時間的消費」の視点でやっているわけです。でもねえ、文化というものの見返りを「一回の利用で何円」なんて量り売りみたいなチンケな態度でとらえること自体、文化への冒涜ですよ。もちろん、ある程度はそういうシステムも必要なのは間違いないですけどね、なんでもかんでもそれを当てはめて、音楽文化を広い意味で「分かち合う」ことを罪とするなんて、無茶苦茶ですね。

昔よくパソコン通信時代に発言の中に曲の歌詞を引用すると「著作権違反だ」とかいう論争が起こったりしていたけど、そういう主張は完全に「消費主体脳」になっている証拠ですね。本当はね、文化はね、「一回いくら」とか、対価とかセコいことをうるさく言い過ぎない範囲で、適当に泳がせておくことによって成長するものなんですよ、本来は。それでその結果が大きな見返りとなってクリエイターに返ってくることがある。今の「著作権保護団体」にはそういう視点がまったくなく、実に嘆かわしいですね。文化の「下流スパイラル」を助長しているとしか思えない。

ついまた著作権団体のことを書いてしまいましたが、内田さんの主張の一つ、つまり若い子たちが「無時間的対価を求める消費主体」になっていることが、教育や労働という分野での崩壊につながっているというのはけっこう当たっていると思います。

さて、一方、内田樹さんの主張に賛同できないところも色々ありました。正直、後ろ向きすぎると思うんですよ。結局「昔へ戻れ」というメッセージしか読み取れない。「日本人は均質的なんだから自己決定なんて仕組みはどだい無理ですよ」とか、教育では、シラバス導入や点数処理がそもそも駄目だとか。昔ながらの「師弟関係」が求められているとか。まあ確かにそういう「つべこべ言わずに師匠に従って学んで、長期的な結果をゆっくり待つ」という教育または労働関係を大切にするのも重要だと思いますけど、それを「本流」に据えるのはもう時代的に無理でしょう。

むしろ、今の時代の流れをしたたかに受け流す柔軟な姿勢が必要だと思いますね。シラバスだってGPAだって表面的なものに過ぎない。そういう「数字的・即時的なものさし」が導入されたからといって、講義の本質が台無しになるわけでもない。「こういう即時的ものさしは、便利な尺度として導入しているけれども、これですべてを計ることは不可能なんだよ」ということを、シラバスやGPAを導入する中で、学生に間接的にでも伝えることは不可能ではないわけです。

それに、学生には能力や適性というものがあります。即時的尺度を超えて「学ぶことは何か」「得られるものは何か」を会得するにはある程度の能力が必要であり、現実問題としては、こういう能力を持つ学生は多数派であるとは言えないでしょう。結局、能力に限界のある子ならば、適切な即時的尺度を与えてタスクを与える方がむしろ伸びるんじゃないかとオレは考えています。実際、「オレの教えていることからおまえらが学びとれ」という長期的視点に立った教育ではまったく何も学びとれない人というのは多く存在するわけですから。中堅そしてそれ以下の大学の関係者なら、そう思いませんか? そのなかで「伝統的な師弟関係」を持ち込んでも、付いてくるのはごく一部に過ぎないと思いますけどね。

シラバスやGPAといった「即時的尺度」の導入にオレが賛成なのは、そういう現実主義から来ています。「おまえら最低限のことはクリアしてくれ、最低限がどういうラインなのかは示すから。な?」「最低限をクリアしてくれれば、あとはバイトなりサークルなり、なんでも楽しんで、人生勉強してくれればいい」というスタンスです。シラバスなりGPAなりで教育が終わるかどうかは、どういうスタンスでそれらの制度に臨むか次第だと思いますけどね。シラバスにしてもGPAにしても、それから授業評価アンケートにしても、絵画を飾るときの枠にすぎないのであって、そこはその枠の中の中身を充実させることができるかどうかは結局教える側の力量次第じゃないでしょうかね。枠は枠にすぎないんだから、さらっと流しておけばいいんですよ。

「流す」ものならそもそもいらないんじゃないの?と言う人もいるかと思いますが、「師の背中をみて学べ、優れたところを盗め」なんて教育法が通用しない、そういう時代になっています。だから、今のこの時代の今の子には「尺度」をはっきり示すことは必要だとオレは思っています。そのうえで、「尺度」はすべてじゃないということを全身全霊傾けて教えればそれで良いかと思います。