講義を工夫することは学生に媚びることだろうか

意図的に避けていた「仮に研究する人生」をここ最近わりとまめに読んでいたのですが、読んでいるとなんか気分がブルーになってきて読むのをやはり控えようと思っている今日このごろです。後ろ向き、自虐的、あるいは他虐的な愚痴が多いので。確かに大学をめぐる情勢は大きく動いており、理不尽で馬鹿馬鹿しいことがまかり通っている場合もあるでしょう。でもだからといってあまり後ろ向きなのもなあ。最近も「学生が授業で飽きない工夫をするように求められている」のは大学の学びのあり方として終わっているというような書き込みがありましたが、学生が授業で飽きないような工夫をするのがなぜ悪いことのなのかオレには良くわかりません。その背景には「学生から評価に高い授業をすることはすなわち学生に媚びることである」という根強い意識があるのかもしれません。

でもねえ、どうせ講義担当するからにはやはり学生に何かを伝えたいわけですよ。少なくとも、例えば親子の会話で、親に「大学ちゃんと行っているか?何勉強してんだ?」と問われて、学生が「この授業でこれこれこういうことをやっているんだ」と答えられるような、願わくばオレの授業はそんな授業であってほしい。教室出たあと、あるいは大学を出たあとも、一つ二つで良いから、何かが頭に残っていてほしい。「それについてはさ、その意見は俗説でさ、大学んとき習ったんだけど、本当はXXということらしいよ」と知識をひけらかせるような、そんな授業をやりたい。(軽薄な例ですが、あくまで一例として。)

だから、オレは講義で何を教えるかを考えるとき、「今から教えることは大学卒業したあとも知っている価値のあることだろうか」と自問します。一つの科目に伝えたいエッセンスが二つ三つあるとして、そのエッセンスが多くの学生の記憶に残るようにするためには、どのような提示の仕方がもっとも効果的だろうかと。こう考えることは別に学生に迎合することだとは全然思いませんけどね、オレは。

…といっても、授業評価で毎年「【な】先生の授業は難しすぎる」というコメントをいくつかもらうので、オレもまだまだ精進が足りないんでしょう。とはいえ、オレは、学生が「ちょっと難しいな」と思うことは絶対必要だと思っているので、いくつかこういう意見が出るのもしょうがないと思っています。ビデオゲームと同じ。ゲームというのは難しすぎても簡単すぎてもやる気が起こらない。ほどほどの難しさを感じるゲームが一番食いつきやすいわけです。あるいは筋トレと同じ。軽すぎるメニューでは筋力はつかないし、重すぎると筋肉を痛めて故障する。「ちょっときついな」というぐらいの負荷が一番良い。もちろん、そのさじ加減が難しいわけですが。

そういえばこの前、中間試験で思いっきりさじ加減を間違えて、平均点50点を下回る問題を作ってしまいました。授業でもっとも出来る層も60点ちょっとしか取れていませんでしたから、完全にこちらのレベル設定ミスです。新設科目だったのですが、TAとしてアメリカの大学の学部生に教えていたことと同内容なので、そのときの1/2から1/3ぐらいの難易度で授業運営したらそれでも難しすぎたようで、中間試験の肝心の目玉問題では全員壊滅。全員壊滅するような問題なんて試験に出す意味がありませんから、これはオレの「負け」です。自分にとっては朝飯前すぎて簡単なことを学生の目線まで下ろして教えることの難しさを痛感しました。

そんなこんなで冷や汗かいた今日このごろ。偉そうな結論をぶちあげるほどの優れた教育者でもないので、落ちはなし。しかしそれにしても早く夏休みなんないかな。