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「情動的刑罰」としての死刑制度

2009-01-20 - ザウエリズム 【Zawerhythm】」さんが死刑制度について触れていますが、ぼくも「死刑制度」というテーマで書きたいことがあったんですよね。このザウエルさんのエントリには直接関係はありませんが、この機会に書いてみたいと思います。

まず第一にはっきりさせておきたいことは、死刑制度の是非について、ぼくは「保留派」であるということです。消極的賛成と消極的反対の間を漂っているという状況です。それを前提に以下を書きます。

日本ではどうも安易に「死刑制度賛成」と宣言する人が多いようですが(「ザウエリズム:死刑制度「存続すべき」9割」)、ではなぜ「賛成」なのか、ということについて本当に深く考えての結果なのか疑問が残ります。死刑制度が犯罪を抑止するという議論もありますが、抑止論というのは後付けの理屈なのではないか。「死刑制度に賛成だ」と言うのには、もっと情動的な理由があるのではないか。

少し前に新聞で報道されていた非道な殺人の被害者遺族の言葉に印象深いものがありました。その遺族の方は、容疑者である犯人に死刑を望んでいるのですが(これは心情的には当然のことだと思います)、加えて、「自分のしたことの重大さを認識して心から反省してほしい」と言うようなことを述べているのです。この言葉も心情的にはよくわかります。しかし、これを読んだぼくは大変不謹慎ながら、「どうせ死刑で死ぬなら反省してもしなくても同じことでは?」と反射的に思ってしまいました。「反省して、その罪の大きさを背負って生きて欲しい」なら分かりますが、「反省して、その罪の大きさを背負って、そして死んで欲しい」というのは、心情として「アリ」でも、理屈はどこか通ってない気がします。

ぼくは、ここに「刑罰」の「情動的」な側面が象徴されている気がします。被害者遺族は大変悲痛な思いを持っている。胸をかきむしられるような悲痛さです。被害者にはこの苦しみを味わって欲しい。死刑になってほしい。しかし死刑になるまえに、自分のやったことを認識して、深く反省してほしい。被害者をせせらわらいながら死刑台にのぼるなんて、被害者遺族にしてはまったく納得出来ないことです。だから、「反省」して、「悔いてもらって」、かつ「死刑」になってほしいと考えるわけです。そうでなければ「気持ち」が収まらないわけです。

しかし、犯人が死刑になって、被害者遺族の気持ちは本当に収まるんでしょうか。それはおそらく人それぞれで、死刑執行されても、悲しみや心に空いた穴が少しもふさがることのない人もいるでしょうし、少しは気持ちが納得する人もいるでしょう。

さて、一方、被害者でない我々はどうでしょうか。我々は、凶悪犯罪を見聞きすると、たとえ他人のことであっても激しい怒りを感じます。去年あいついで報道された「ひき逃げ、ひきずり、死亡」事件を読んだとき、ぼくも激しい憤りを感じ、瞬発的に「犯人は死ね!!!!」と思ったものです。この事件の犯人は刑法上、死刑になることはまずないと思われますが、それでも「死刑にしてやれ!!!」と瞬発的に思いましたし、多くの人はそう思ったでしょう。もちろん、死刑が求刑されるような非道な事件では、その思いもいっそう強くなります。

死刑を求刑された犯人が実際に死刑判決を受けると、我々の怒りはかなりの程度収まります。ざまみろ、おまえなんて死んで当然だ、と。そして、事件のことは記憶から消え、我々は何事もなかったかのように日常生活を送ります。

この一連の流れの中で、「死刑」という極刑がもたらすものは「カタルシス」です。凶悪犯罪によってかき乱された我々の心の中に沸き上がった「やり場のない怒り」が、「死刑」という装置によって浄化されるのです。

思うに、今の日本で死刑制度に賛成している人の中には、この死刑のもたらす「カタルシス」を奪われたくないという無意識の動機がかなりの部分を占めているのではないでしょうか。

問題は、「カタルシス発動装置」として死刑制度を維持することが本当に妥当なのかということです。我々がカタルシスを得るために犯罪者の命を奪うというシステムが、本当に諸手を挙げて賛成できるようなシステムなのかということです。基本的に、凶悪犯罪者たちは我々には関係ない世界の住人です。凶悪事件の被害者とも加害者とも我々は(ほとんどの場合)他人です。会ったことも関わりもない他人に対して、「おまえのやったことは許せない、俺の気持ちが納得出来ないから死ね」と言うのは、どうなんでしょうかね。だって、どうせ何年か経ったらその事件のことは忘れるんですよ。他人事だし。死刑になってもならなくても、はっきりいって我々の生活にはほとんど関係ないでしょう。だったらそんなに死刑にこだわらなくても良いのでは?

また、「カタルシス発動装置」としての死刑は、アカの他人である我々には良く効きますが、被害者遺族に対して本当に有効なのか(つまり、犯人が死刑になることによって被害者遺族の気持ちが納得するのか)については微妙で難しい問題かと思います。

こうして考えると、今の日本で圧倒的に支持されている死刑制度の役割って、被害者のためとか社会のためとか言うよりも、凶悪犯罪報道によってかき乱された我々の心の浄化のためにあるんじゃないかという気がしてきます。ま、それは言い過ぎでしょうが、しかし、「死刑制度賛成」と言う人は、その賛成理由の中に、「情動的」要素がどれぐらい占めているのか、そして、「情動」によって死刑を支持するのが本当に妥当なことなのか、深く考えるべきではないかと思いますね。「凶悪犯罪者に人権はない」とか「人権家死ね」とか言っている人たちも。「怒れる自分」が納得出来ないから「犯人は死ね」と言うのは、感情としてはよく理解できますが、そんなに直情的に社会制度を決めてしまっていいんですかね。とりあえず「怒れる自分が納得する」ことが、社会という大きな枠の中でどういう意義を持っているのか、まずそこから考えなければいけないのではないか。「許せないから殺せ」ではただのリンチ社会になってしまう気がします。

ということで、ぼくの現時点の考えは、「情動」を主な理由で死刑制度を支持するのはおかしいだろうというのが一つ。(なぜなら、「情動」なんて死刑制度によって浄化しなくても時間が経てば多くは沈静化するもんなんですから。)しかし、社会制度的「刑罰」から「情動」の側面を削ぎ落とすことが本当にできるのだろうかという思いがもう一つ。この二つの間で揺れています。