のりピー謝罪と日本人気質と死刑制度

柿柳さんのところのこちらのエントリの以下の文言について思ったこと。

世間を騒がせてごめんなさい、というのは極めて日本人的な謝り方で、白黒とは関係なく、世間を騒がせた時点でもう人間失格なんだよね。

まったくもってその通りであります。で、日本の「美しい文化」であるこの謝罪文化も、正直、再考の余地があるのではないかとちょっと思います。

ご存知のように、日本では何か不祥事があるとたいてい「誰か」が謝ります。というか、謝ることが要求されます。謝罪会見自体が世界的に見ても特殊だというのはおいておいて、問題は「本当に<そのひと>が<そのこと>について謝罪すべきなのか」ということをさしおいて、「とりあえず」謝るということです。

大学生の不祥事に大学の副学長が謝る。でも高校生ならともかく、大学生の不祥事って大学のせい? 芸能人の不祥事に芸能プロダクションが謝る。でもそれって芸能プロのせいなのか? のりピーは世間を騒がせた事に謝る。菊池投手も世の中を騒がせて謝る。会見はしないけれども、天災で電車が遅れたら車掌は謝る。

それって謝んなくていいんじゃ?

しかし、日本人のメンタリティーが謝罪を求めるのであります。というか、謝罪されることによって、自分のなかのもやもやした気持ちがある程度浄化されるのを感じる。その感覚が忘れられないから、とにかく誰かに謝ってほしい。自分が直接被害を受けているかどうかは関係ないんです。また、謝る人が本当の責任者かとか、謝ることがらが謝るようなものなのかはどうでもいいんです。とりあえず謝罪してほしい。そうすれば自分の気持ちはすっとするから。

この、「カタルシス」重視の日本人気質、ほんとそろそろ考えた方がいいんじゃないの? 日本で死刑制度の支持率が高いのもこのせいだとぼくは思います。死んで詫びろ。そうしたら我々の気持ちがすっとするから。多くの日本人はカタルシス発動装置として死刑制度を支持しているように思えます(以前も書きましたが)。でも、本当にそれでいいのか?

あと、企業やら政治家やらの不祥事の後始末にも日本人は甘いというか忘れっぽいですよね。あれも、謝罪によってある程度すっとしたので、わりに後腐れなく感じるんですyね。まあ、その忘れっぽさ、後腐れのなさは日本人の良いところでもあるとは思うのですが、もうちょっとなんとかならんのか。

そういうことを日頃思っております。さ、シゴトにもどろう。