ブンガク研究して何になるの?

14番目のサンダル」の雪見さんが3ヶ月まえ、次のようなことを書かれていたのに対し、雪見さんのテキスト庵復帰記念として超遅いタイミングですが反応してみようかと思います。(いや、実際は3ヶ月前に自分でお蔵入りにした駄文を今引っ張りだしてきたというだけですが。)

夫がわたしにする質問のうち、最もイヤなものは次の質問である。

「ねぇ、ブンガクってどういうこと研究するの? 他人が書いた文章にあーだこーだイチャモンつけるだけなの? そんなんことしてどういう意味があるのさ」 この質問を彼は3か月にいっぺんはするのだが、そのたびにわたしは聞こえなかったふりをする。だって答えようがないもん。

http://www.geocities.jp/yukimi_ist/diary/diary0906.html

ぼく自身、ブンガクというものを勉強したことが一度もない(ブンガクの授業をとった経験がない)ので、こういう疑問を発する人の心理というのは分からないでもないし、これが文学研究に対するもっともステレオティピカルな見解なんだろうとは思うのですが。でもまあ、違うんですよね。全然違う。

基本的に、人文および社会科学の目標というのは同じだと思うんですよ。それはずばり「人間ってどうなってんだ」という疑問に少しでも答えたいということです。例えば経済にヒューマンファクターが大きくからんでいるということは最近の不況で多くの人が肌で実感していることと思います。敗者のないユートピアをめざした共産主義も、競争によって切磋琢磨して高め合うという逆のユートピアをめざした新自由主義も、ヒューマンファクターとのバランスがとれず挫折しました。もちろん経営学はさらに人間臭い世界です。法学というのは、過去の判例と、文化・倫理・価値観の変化との折り合いをつけるための知であります。社会学・心理学が人間を研究対象にする学問であることは言うまでもないでしょう。歴史学ももちろん人間学です。

我々自身が人間そのものなんだから、人間について研究することは意味ないんじゃん?...ということにはもちろんなりませんよね。我々が遭遇するトラブル(日常レベルから外交の軋轢まで)の多くは人間がらみのものばかり。人間を研究するのはそれだけで人類の未来への貢献となるものなのであります。

しかし、人間の研究の様々な分野の中で、なぜ文学研究だけが「そんなことやって何になるの?」と言うすっとぼけたコメントを得てしまうのでしょう。

それは、「文学」というものが一個の独立した実在物であるかのように誤解されているからでしょう。別のいい方をすれば、文学研究とは文献の研究だと思われているわけです。そりゃもし文学研究が、書物をひっくりがえしてああでもないこうでもないと言うだけなら、「他人が書いた文章にあーだこーだイチャモンつけるだけなの? そんなんことしてどういう意味があるのさ」と言われても仕方がないでしょう。

しかし、「文学」=「文献」であるというのは大きな誤解であります。なぜなら、文献とはあくまで紙の上のインク染みであるに過ぎないからです。文献それ自体に意味はない。もっといえば、文学の本質が文献の中にあるというのは幻想です。文学が「人間の外側」に存在する独立した実在物であると考えることが根本的に誤った考えなのであります。

文学の本質は文献にはなく、その文献を読んだときに起こる我々の心的変化にあります。

同じインクの染みでも、読むひとの心 (mind) に深い印象、悲しみ、衝撃、余韻などを残すものもあれば、箸にも棒にもかからない、時間をかえせと言いたくなるようなつまらないなものもあります。

この違いはいったいどこから来るのか? この問いを問うことは当然大きな意味があります。

文学は「ひきがね」です。犬や猫が見ても何の反応もないインクの染みが、我々人間にとっては特定の感情の「ひきがね」となる。なぜ人間は特定の条件において特定の感情を喚起されるのか。その感情の正体は何なのか。その「特定の条件」とは文化的・社会的背景なしでは成り立ち得ないものなのか。それとももっと人間の普遍的な価値観に基づくものなのか。あるいはその両方なのか。作品が社会に影響を与えることはあるのか。ジェンダーによる「ひきがね」の効果の違いはあるのか。「ひきがね」を生み出す「技術」があるとすればそれはどういうものなのか。

いずれも、人間のこころの仕組みに直結する問題であり、それを研究することに「意義がない」と考える方が不自然だと言えるでしょう。

他にも文学研究の意義はいくらでも思いつきますが、今日のところはこのへんにしといたりましょう。