「死」から逆算する人生

ひるあんどんさんの「うだうだ帳」に以下のような記述がありました。

「死」はいつも人ごとだった。なんだか永遠に生きるような気がしていた。それがここのところ、元気に活動できる最後の年齢から逆算して、ものごとを考えるようになった。

これは、程度の差こそあれ、40を超えた時点で多くの人が考えることではないかと思います。ぼくもそうです。このことが人の考え方にどのように影響を与えるかは人それぞれでしょうが、多かれ少なかれ確実になんらかの影響が出るものだと思います。ひるあんどんさんは人生の折り返し点に思いきった「変化」を求める人々に、その「転換」を見ていますが、実はその「逆」の影響がある人もかなり多いんじゃないかと思います。

つまり、「死から人生を逆算するようになり、逆に保守的になる人々」です。

(以下はひるあんどんさんの元の文とはまったく関連のない話になります。)

若い頃は時間も無限にあり、何でもできる気になっています。そして自分が社会の変革をもたらすのだと奮闘します。ところが、死が近づいてくると、もはや自分が変革をもたらすことに「時間的」な限界を感じるようになります。さらに、社会の中に自分が築いたもの(それが「労働」という抽象的な形であっても)がはっきりと残っていることを感じ始めます。さらに悪いことに、若い世代は(自分がそうだったように)破壊的な態度で変革をもたらそうと「攻撃」をしかけてきます。

人生の「まとめ」に入ろうとする自分はどうすべきなのか。自分が満足する形で死を迎え、きれいに着地するにはどうしたらいいのか。

逡巡していくと、若者の押し進める「変革」は、もはや「自分が築いて来たもの」に対する破壊にしか思えなくなります。そして人は、自分の人生を自分が満足するように収束させるために、「変革」を弾圧するようになります。

これが「近頃の若い者は…」と言う、太古の昔から受け継がれて来た中高年の姿勢の正体ではないかと考えられます。

あと、「日本とは」「日本の文化とは」「日本の伝統とは」と語り始めるのも、「死」という着地点を意識しはじめた者たちの典型的な態度であります。そういう人々にとって「文化」とは「創るもの」ではなく「守るもの」であります。なぜか? それはもはや自分には「創る」時間がないからです。「創る」時間はないのだから、「守る」しかない。そうして若者が傍若無人なパワーで文化を「創ろう」とするのに対し、かたくなに抵抗するわけであります。

しかし「文化」は、中高年や保守層がどんなに頑張っても、「創る」というパワーによってのみ支えられ、生きながらえていくものであるとぼくは強く考えています。ぼくも中高年の例にもれず、伝統文化に近年たいへん興味を持っていますが、それら伝統文化もその出自の段階では破壊的な「創る」パワーによって生み出されたものであることを忘れてはならないと思います。

若い人たちの破壊的な創造行為にぼくがシンパシーを感じるのはそのような理由です。もっとも、若者の文化は本当に玉石混淆なので、見極めが難しいのですが…。その点「伝統」を愛でるのはラクチンですよね。すでに淘汰されていいものしか残ってないんですから。だから伝統を愛でたってエラいことなんて一つもないとぼくは思っています。

なんでこうだらだらと書き連ねたかというと、自分の親の保守化が激しくてうっとおしいから!