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本田由紀「教育の職業的意義」は幻想か

Twitterのどなたかのツイートで興味を持った本田由紀「教育の職業的意義」(ちくま新書)を買って読んでみたところ、おもしろい内容だったので、本田さんの主張をまとめたうえで、自分の考えを少し述べてみたいと思います。(以下敬称略)

本田本の要旨

教育社会学者の本田は、現在の若者の就労をめぐる過酷な状況は、以下の二つが大きな要因だと主張します。

  1. 産業経済界の構造的な問題
  2. 高等教育の問題

前者は良く言われることですが、後者について論じる人は少ないので、そこがこの本の独自性でしょう。

本田によれば、かつて高等教育と職業が有機的につながっている時代もあったが、経済成長期に労働力の安定的大量確保をおもな動機として、新卒一括採用という日本独特の制度が確立しました。それにより、大学教育の「空白化」(本田はそういう言葉は使ってないが)が進みました。

というのも、一方では、大学入試を学生の能力の担保とする「新卒一括採用」のシステムのもとで、企業の人事担当は「地頭が良ければいい」とまで公言するようになり、大学での学習に何の価値を見いださない状況が生まれたのですが、もう一方では、高等教育機関において、職業専科教育に対する「普通教育」の優位が謳われ、さらに、産業経済界から独立した「自律的教育」が大変重視されました。その結果、「入試」→「就職」のはざまにある「大学教育」は、完全に浮いた存在となりはてたというわけです。

さて、このシステムのどこが問題なのか?

本田によれば、新卒一括採用のもと育まれた日本の雇用制度は、給与を特定の「職務」にリンクさせることなく、会社内での経験値にリンクさせる「職能給」として発達しました。つまり、「これだけのシゴトに対してこれだけの給与が支払われる」ということではなく、「会社に何年いたこの人だからこれだけの給与を払う」というシステムです。

「仕事」ではなく「人間」に払われる職能給制度のもとでは、サービス残業や会社都合の転勤などに対する拒否権は与えられず、そのかわりに年功による昇給と雇用の安定が保証されました。そのシステムの中で、職業訓練は企業が受け持ちました。

ところが、不況になり、その「職能給」制度が雇用主によって都合良く使われるようになりました。「仕事」と「給与」の関連づけが希薄なのを良いことに、多大な労働が押し付けられるようになった。

「入試→新卒一括採用」と、「大学」をすっとばす日本の雇用制度を、本田は「赤ちゃん受け渡しモデル」と呼びます。入試の時点で無防備な赤子だった学生を、赤子のまま企業に受け渡す制度だと言うことです。赤子同然の若者たちは、不況のもと、過酷な労働環境に放り出され、なす術もなく呆然と立ちすくんでいるというのが、現在の若者の就労状況であると本田は主張します。かつて丁寧になされていた社内教育も不況の中、満足になされず、いったん社会に適応しそこなうと立ち上がることも困難な状況においこまれます。

本田によれば、この問題の解決には産業経済界における雇用の構造の改善も当然必要ですが、高等教育の方ももはや「我関知せず」と、「赤ちゃん受け渡しモデル」を放っておくことはできない、「職業的意義」のある高等教育をほどこすことが必要だ。

以上が大体の要旨だと思います。

この本で個人的に特に共感できたのは、以下の二点です。

  1. 新卒一括採用への批判
  2. いわゆる「キャリア教育」への批判


新卒一括採用制度の異様さ

本田によれば、大学生が就活を始める時期について、在学中から就活を始める学生の割合は欧州全体では39%であり、スペインの23%、イギリスの16%、フランスの10%のように大変低い国もあるということです。対して日本は88%。これが如何に異様な数字かお分かりいただけるかと思います。

個人的経験。ハーバード大学に院生として在籍していたとき、学部生の卒論発表会を聴きにいったのですね。卒論は必修ではなく、選ばれた優秀な学生のみが卒論を書くシステムでした。その発表会のあと、学生に「進路決まっているの?」と質問したところ、ほとんどの学生は「これからゆっくり考える」とのことでした。

つまり、かの地の学生は4年生の終わりまでみっちりと勉学に打ち込むが、日本の学生の勉強は2年で大半の単位を取得して、勉強はそこで大体終わり。3、4年は就活に打ち込み、合間に数コマの授業に出る程度で、普段はバイトと、就活面接の練習をしている。こんなんで日本は大丈夫なのか?

本田曰く「大学教育を修了するずっと以前に採用が決まってしまうからには、企業側が大学教育で何を身につけたかを重視していないことは、大学生にとっても明白である。それゆえ大学生は大学での学習への動機づけをもちにく」い(p.121)。そんな状況下では、「職業的意義」のある教育をかかげてものれんに腕押し、ぬかに釘。若者を救うことはかなわないだろうというわけです。

「キャリア教育」への痛烈な批判

本田が「新卒一括採用制度」よりさらに痛烈に批判しているのは「キャリア教育」です。曰く「本書の立場と、一見同じ方向を向いているようで、実は互いに相容れないどころか、『教育の職業的意義』の追求に対して、障害にさえなりかねないものが、現代日本社会においては強固に存在している」とし、それは高校・大学における「キャリア教育」だと断じています(p.134)。

本田によれば、手段や方法を提示することなく「生きる力」や「人間力」といった抽象概念を生徒・学生に喚起して求める「キャリア教育」は、逆に若者の不安感を煽っていると言うことです。

近年の高校生の悩みに関する調査では、学力の悩みに次ぐのは、「自分に合っているものがわからない」「やりたいことが見つからない・わからない」「社会に出ていく能力があるか自信がない」といった悩みであるといいます。これはぼくも実感するところで、最近の学生はやたらと「自分探し」をしたがる傾向があるように思います。ちまたのヒット曲にも「自分らしくいこう」みたいなメッセージが蔓延しています。そして同時に、自分の方向性が分からなくて自滅する若者もしばしば見かけます。

話はそれますが、ぼくは新入生オリエンテーションなどでは「20前後で自分探しなんてやっても無駄。本当に自分がやりたいことなんて40になってようやくわかるかどうかってもんだから、今は結果を求めず自分を開墾して引き出しを増やすと良い」と強調するようにしています。

で、本田は、「『キャリア教育』はその対象となる若者の『勤労観・職業観』や『汎用的・基礎的能力』を高めるという政策的意図に沿った結果をもたらすよりも、そうしたプレッシャーのみを強めることによって、むしろ若者の不安や混乱を増大させてきた可能性が強い」としています。

もともとキャリア教育には懐疑的な思いを抱いていましたが、この論点はたいへん説得的だと思いました。

「職業的意義のある教育」とは?

さて、以上が特にぼくが納得できた本田の論点ですが、では具体的にどのようにすれば「教育の職業的意義」を高めることができ、社会に出る若者をサポートできるのかというと、この本では残念ながら具体的な提案についてはあまりなされていません。

本田が強調するのは、「適応」と「抵抗」の教育です。前者は社会に適応するために必要な「専門的技能」などの教育のことであり、後者は、不当な労働環境のもとで脱出不能にならないための、労働法や労使関係についての、「労働者の権利」についての基本的知識の教育です。

後者についてはそれほど難しくないでしょう。基本的な労働法教育ならば、そういう授業を一つ設けて必修にすれば良いわけだから。問題は前者です。

本田が挙げている具体的な方策は、専門学校や技能専門高校、特定技能専門学科を持つ大学の拡充などですが、確かにその方策はある程度は有効かと思います。広い意味での職人の育成、多いにけっこうです。

しかし、世の中には対応する専門学校が存在しない「ホワイトカラー」系の仕事も山ほどあるわけで、もう一方では、数の上で圧倒的多数のリベラル・アーツ大学で、どのような教育が望ましいのか、普通科大学を廃校にして専門大学にしろと言うのも現実的じゃないし、どうしたらいいんだろうという思いが、本を読み終わってもぬぐいさることはできませんでした。こここそが、世の大学教員が知りたいところなのに!

このことについて本田は自覚的で、後書きで、自分は教育社会学者なので、具体的カリキュラムについての提言をすることができないとしたうえで、「この本で主張されている『教育の職業的意義』や『柔軟な専門性』などの概念も、私が批判している『キャリア教育』や『人間力』と同様に、抽象的で曖昧なものにすぎないという印象を読者に与えるかもしれない。それを思うと苦しい」と述べています。

「職業的意義のある教育」は幻想?

本田の本は大変興味深く、しかも、感情的になることなく、冷静・冷徹かつ論理的な文で書かれており、データの豊富さもあいまって、近頃のハナクソみたいな本があふれる新書としては大変読み応えがありました。

ただ、本を読み終えて一週間ほど考えた結果、本田が具体例を提言することのできない「職業的意義のある教育」は、本田の理論的考察から生まれた幻想ではないかと考えるにいたりました。

本田は、大卒生の意識調査から、日本の大学教育が西欧諸国の大学より「職業的意義が薄い」と結論づけていて、その結論自体は間違っていないと思いますが、だったら、西欧諸国の「職業的意義のある教育」がどうなっているかを調査すれば、それをロールモデルとして、なんらかの具体的提言ができるはずです。

ところが、それについての調査報告はありません。単に、未調査なのかもしれません。しかし、それ以前に、「職業的意義のある教育」の「実態」自体が西欧の大学に存在しないのではないか。だからこの本にそれについての調査報告が欠けているのではないか。存在しないのならば、調べようもない。あくまで邪推ですが、そう勘ぐりたくなります。

そう邪推するのは、ぼく自身、9年近くアメリカの大学院にいて、学部教育にも関わった経験があり、そしてその間に、本田の言う「職業的意義に密接につながった教育」なんて目にしたことがないからです。

もちろん、アメリカに「職業的意義のある教育」がまったく存在しないということはない。アメリカでは、特に、コミュニティーカレッジと呼ばれる二年制の短期大学は、地域密着型の社会人大学として根付き、成果を上げています。日本においても、特に学生を集めるのが難しい底辺の大学は、アメリカのコミュニティーカレッジのような、入試選抜のない社会人大学に生まれ変わるべきではないかと、ぼくは思います。

しかし、コミュニティーカレッジはもちろん、アメリカの大学教育の「本流」ではありません。では「本流」である普通の4年制大学はどうなっているのか。何か「職業的意義」に密接に結びついた教育をやっているのか。

これに関して、アメリカのコロンビア大学での「コア・カリキュラム」(1, 2年次の教養教育)についてレポートしたadawhoさんのブログを参考に挙げてみたいと思います。

いかがでしょうか。日本で絶滅しつつある「教養教育」の王道が前面に押し出されています。ハーバードでのコア・カリキュラムは、ここまでハードコアなカリキュラムではありませんでしたが、しかし、アメリカのトップ大学はどこでも大体似たようなシステムだと思います。つまり、いわゆる、普通の、王道の、ハードコアな「リベラル・アーツ(教養)」教育が行われているというわけです。

ちなみにアメリカでは、入学時には学科はおろか、文系理系にも分かれていないというシステムが一般的で、2年次終わりに専攻を決めるというシステムです。じゃあ、1, 2年次は教養教育でも、3年次以降の専門教育では、「職業的意義」に結びついた教育をしてるんじゃないの?という疑問も生まれるかもしれません。

結論から言えば、おそらく、NOです。「おそらく」と書いたのは、アメリカの実態を調査したわけではないから「おそらく」なんですが、ぼくが見聞きした範囲では、有名な大学の先生というのは、いわゆる「学者」のイメージ通りの人々ばかりであり、学生の就職を視野に入れて講義をするひとなどいないと思われます。

つまり、本田さんが具体的に提言できない「職業的意義に密接した教育」は、いわゆるリベラル・アーツ系4年制大学には存在しないということになります。(注:リサーチしたわけではないので間違っているかもしれません。)

ではなぜ日本の4年制大学教育は空虚化しているのか

しかし、日本において大学教育が学界以外の社会の中でほとんど評価されていない実態があるのは本当であります。また、本田さんも、大卒者で大学で学んだことが「仕事に役立った」と考える割合が欧州と比較して格段に低いことを指摘しています(p.118ff)。他方では、少なくともアメリカの4年制大学では特別に職業的意義に重点をおいて教育を行っているようには見えない。それではなぜ、日本の大学教育のみが社会の中で空虚化しているのか?

これは、教育の中身というよりも、教育のクォリティーの問題ではないかと想像します。ぶっちゃけていえば、日本の大学は学生に勉強させなさすぎる。

これまたアメリカの例しかわからないのでアメリカの例を書きますが、アメリカの大学は日本の大学よりはるかに勉強させることは有名であります。ほぼ日本の通年にあたる授業を、週二回授業で半期で終わらせて、一科目の集中学習を確立している。宿題はすべての授業で毎週出るのが当たり前。予習の量も大変多い。中間テストもある。期末テストもある。レポートもある。トップ校では、予習だけでも大変なのに、課題は多くの調査と、少しのオリジナリティーが求められる。締め切りも守らなければならない。すべての授業がこんな調子なので、学生は一週間をどう過ごすか、どのタイミングで勉強の時間を見つけて、どのようにタスクをこなすか、非常に計画的に考えなければならない。(注:ただし、通年分の授業を半期でやるので、授業科目数は日本の大学生が半期で履修する科目数の半分で済む。一般にアメリカの大学では、半期に4〜5科目を履修するのが普通で、多くて6科目履修となるが、6科目だと学科長の許可が必要という大学も多い。)

このように、タスク・マネージメントを厳しく要求する教育が4年間続くわけなので、それ自体が就業への準備となっているのではないかと想像するのです。また、ご存知のように、アメリカのトップ校では授業中にクラス全体に質問を投げると、学生から次々と手が挙がります。こっちが質問しなくても勝手に手を挙げて質問や時に反論が来ます。日本の大学に就職してもっともカルチャーショックだったのはこの点で、とにかく日本では学生がちっとも授業中に発言してくれないので、最初はものすごく困りました。それなのに、シュウカツになるといきなり自己プレゼンテーション能力が問われて、必死に面接の練習をしだすんですから笑っちゃいます。

というわけで、アメリカでは、たとえリベラル・アーツを教えていたとしても、単位を取るというプロセス自体が学生の鍛錬につながっているのではないかと想像するのです。

もちろん、この日本の「消極的すぎる、勉強しない学生」を生み出したのは我々大学人であり、しょうもない政策で大学をコントロールしている文部省/文科省であります。我々は本当に、マジで大学教育の「質」を真剣に再考し、大学教育の意義というものを社会に認識させなければならないと思います。それは「キャリア教育」とか、あるいは「社会人を育てる教育」などで成されるものではなく、単に、「学生を訓練する」教育をするという、シンプルだが困難な変革によってもたらされるものであるとぼくは考えます。

「職業的意義のある教育」とは、そういうものなのではないでしょうか。*1

*1:関連エントリ一覧です:高校と社会のはざま〜大学を考える(全4回)

  1. [http://d.hatena.ne.jp/ultravisitor/20100216:title=本田由紀「教育の職業的意義」は幻想か (2/16)]
  2. [http://d.hatena.ne.jp/ultravisitor/20100219:title=河本敏浩「名ばかり大学生」における大学批判・入試批判は(論拠は少し弱い気もするが)もっともである (2/19)]
  3. [http://d.hatena.ne.jp/ultravisitor/20100223:title=佐藤孝治「<就活>廃止論」から大学を考える (2/23)]
  4. [http://d.hatena.ne.jp/ultravisitor/20100225:title=高校と社会のはざま〜大学を考える:まとめ]