高校と社会のはざま〜大学を考える:まとめ

「社会の中の大学を考える」シリーズですが、タイトルがちょっと曖昧なんで、後付けですが「高校と社会のはざま〜大学を考える」に変更しました。自分が勉強する目的で三冊の本を読み、コメントを書いたのですが、今回はその総括コメントを書きたいと思います。参考までに、このトリロジー(笑)へのリンクを張っておきます。

  1. 本田由紀「教育の職業的意義」は幻想か (2/16)
  2. 河本敏浩「名ばかり大学生」における大学批判・入試批判は(論拠は少し弱い気もするが)もっともである (2/19)
  3. 佐藤孝治「<就活>廃止論」から大学を考える (2/23)

あまり深く考えず、ウェブで目についた本三冊を、いずれもアマゾンで注文して読んだのですが、期せずして、「大学教育(本田)」「高校教育(河本)」「就活(佐藤)」の現場の人たちによる三冊となり、結果的にバランスが取れた選択だったと思います。で、以下が自分なりのまとめというか結論です。…って、いつもと同じ結論ですが、他の人の問題意識を読ませていただいてもやはり同じ結論にいたるということが分かったのが収穫でした。

大学入試制度の抜本的改革が急務

科挙の時代じゃあるまいし、今どきペーパー試験一発で大学を選ぶという原始的な現行制度は、もはや辞めるべきでしょう。

  1. 河本さん(「名ばかり大学生」)は、一発勝負ペーパー入試が高校教育の意義を矮小化していると批判しています。
  2. 一発勝負の入試制度はまた、大学入学後の大学生の学びに対する低モチベーションの一因でもあります。
  3. 佐藤さん(「<就活>廃止論」)は、入試制度には言及していないものの、就活に絶対的に必要な<ステップ0>(=自分の能力・長所と結びつく経験全般)の構築、およびその自己評価の機会が、現状では大学3年の秋から4年の春という短期間に限定されているということが問題だとしています。佐藤さんは、その原因を新卒一括採用制度に求めており、その指摘は正しいのですが、ぼくは同時に、「なぜ日本の大学3年生になるまで<ステップ0>にかくも無頓着なのか」ということを問いたい。結局、一発勝負ペーパー入試というものが、多くの高校生の「将来の自分に対するビジョン」の育成を殺してしまっていると考えられます。むしろ入試において志願者に<ステップ0>の自己評価を求め、提示させるべきです。
  4. 本田さん(「教育の職業的意義」)も入試制度には言及していませんが、本田さんが暗中模索する(失礼)「職業的意義の高い教育」が日本において欠如しているその理由の一つが、一発勝負ペーパー入試にあると考えられます。つまり、アメリカなどにおいては大学入試選抜の段階で「自分が今まで何をやってきて、その土台の上にこれから何をやりたいのか」を明確にするように要求するシステムなのに比べ、日本においては試験をパスする学力のみが求められているので、多くの高校生は「今の学力で入れる一番偏差値の高い大学に入る」という偏差値ドリブンな大学の選び方をしています。よって、そもそも、日本の学生には、将来の就職を見据えて学生生活を送る準備がそもそもできておらず、それゆえ、大学での学びを将来に結びつけて考える能力が決定的に欠如していると言えます。

結局、「点が取れればいいんだ」という教育が、中学高校を通して徹底的になされている。結果、自己の過去と現在と未来を見据える訓練がまったくなされないまま、大学3年の就活の時期を迎えることになる。社会における大学教育の「空白化」には大学カリキュラムの問題も大きいのは確かですが、それ以前に、入試制度が若者の成長の芽をつぶしているという構造的な問題から芽をそらしてはいけないでしょう。結局、一発勝負ペーパー入試がある限り、文科省がどんなに高校や大学の教育カリキュラムに手を加えても効果は期待できないと思われます。(河本さんも同じ主張をしています。)

さらに、これもいつも言っていることですが、現状の「大学個別ペーパー入試」は非常に効率が悪く、人的リソースを浪費するシステムであることも忘れてはなりません。全国700の大学が複数日程複数科目の入試問題を毎年作っているのですから(作るのは研究者である大学の先生です)、その数は数千に昇ります。数千種類の入試問題が毎年作られて毎年破棄されているのです。まさに研究・教育リソースの無駄遣いであり、こんなことやっている限り、日本の大学が研究大国、教育大国になる日は遠いでしょう。

改革案としては、これまたいつもの繰り返しになりますが、アメリカ型AO入試に近い形を取り入れるのが良いでしょう。

  1. 原則としてペーパー試験はセンター試験のみ。
    1. センター試験(仮称)は年に複数回実施し(参考までに、アメリカのSATは年に7回実施)、いつ受けても、何回受けても良いようにする。
    2. センター試験(仮称)を高大連結テストと位置づけ、大学進学者に義務づけるのも良いだろう。
    3. 学習指導要綱とセンター試験(仮称)の必修科目を連結させれば、さらに良いだろう。
    4. センター試験作成のために、専門のセンターを作り、専任職員を雇用して作成する(余っている博士号持ちを活用すると良い)。ちなみに現状は、大学の教員が指名を受けて作らされている。
    5. センター試験の監督に大学教員を総動員する馬鹿げた習慣を止める。
  2. 大学受験は、センター試験(仮称)のスコア、高校の成績と、エッセイにより選考する。
    1. 専攻は入試事務室(AO)が行う。
    2. AOの役割は重大であるので、現状の、職員の持ち回りでAOを構成するシステムをやめ、専門の職員を採用し、ふさわしい人材を見極めるシステムを構築する。
    3. エッセイは、大学が書式を指定しても良い。エントリーシートのイメージで考えても良い。
    4. エッセイには必ず「自分がこれまでにしてきたこと、力を入れてきたこと」と「大学に入ってそれをどう発展させるか」を書かせるべきだろう。
    5. 独自に学力考査を課したければ課しても良い。

学生を鍛える教育を

さて、入試さえ変えればそれですべての問題が解決するというわけにはもちろんいかなくて、やはり大学の教育も変わらなければならないでしょう。

実は大学の教育は少しずつ変わっており、「教わることを期待するな、知識はオレから盗め」的な学究的講義は減りつつあります。その一因として、若手教員の質の変化が挙げられるかと思います。かつて「研究室世襲」的であった大学教員の採用人事は現在熾烈な競争の場となっており、若手教員には、「ガチ公募」を勝ち抜いてきた人も多い。そういった「厳しい就活」を生き抜いてきた教員は、自分の能力を他者にアピールすることの重要性を知っているし、自分がどれだけのことを知っているかと同じぐらい、知っていることを人に分かってもらえるかということに意識的である(と思います)。よって、学生がきいていようがいまいが関係なく一方的にしゃべるとか、同じ講義ノートを読み上げるだけとか言う「昔ながら」の大学の授業は急速に姿を消しつつあります。海外で教育を受けた経験のある若手が増えている(…ような気がする)ことも関係あるかもしれません。いまや、中堅大学のスタッフの中にも、海外の有名大学で博士号を得た若手教員を見つけることはまったく難しくありません。

それでも、まだまだ「学生を鍛える」という点では足りていないと言えるでしょう。それは、「授業外での学習時間」の、欧米の大学生と日本の大学生との絶望的とも言えるほどの格差を鑑みても分かることです。結局、日本の大学では「授業に出て期末試験前に勉強すれば単位が取れる」ケースが多いわけです。それを裏付ける一つの事実として、時間割において授業と授業の間が空くことを今の日本人学生が大変嫌がるということが挙げられます。なぜか。「空いた時間にやることがなくて暇だから」です。空いている時間に予習や課題をやるという発想はない。そもそもそれが求められていないのだから。宿題の量はぼくが学生だったころよりは確実に増えています。それでもまだまだ足りない。

結局、そういう「学生を鍛えない授業」が、本田さんが批判する「職業的意義が感じられない教育」の正体なのだと思う。逆に言えば、ちゃんと鍛えれば、それは間接的に「職業的意義」につながるのではないか。佐藤さんは、企業で求められる人材とは「自分で考え、決断できる人材」だと言い、そういう人材が「即戦力」となりうると言います。現状の「鍛えない授業」「学習を求めない授業」「ゲタをはかせてようやく学生を通す定期試験」などで、こういった能力が育つとは思えません。

これを改善するために、以下のようなことが必要になるでしょう。

  1. 「インプット」と「アウトプット」を明確にする授業
    1. 「全然理解できなかったけど単位もらえた」とか「試験で適当に書いたのに優がもらえた」とか「猛勉したのに不可だった」といったことはもはや許されない。こういったことをやっている限り、経済産業界から受けている「大学の成績評価は信頼に値しない」との烙印を払拭することができないし、何よりも学生の学びのモチベーションや「考える力」の育成を阻害するだろう。
    2. 「どれだけ勉強すればどれだけの成果がでる」という学習のインプットとアウトプットを出来るだけ明確にする必要がある。若者がテレビゲームを好むのは、練習の成果が透明性を持って結果となって返ってくるから。
    3. もちろん、「学習の成果はそんな短期的なものじゃない」「勉学の意義は大学卒業して何年も経ってからわかるものだ」と反論があるかもしれない。それはその通りである。
    4. しかしそれはそれとして、どれだけの勉強をしたらどういう成績が付くかを明確にするべきである。そうやって初めて学生の勉学にまともに取り組む姿勢が刺激される。
  2. 成績にゲタを履かせるべきではない。
    1. 数点程度の調整はしょうがないが、原則60点を切ったら単位を出すべきではない。「60点」ということは、「授業の内容の4割を理解していない」ということである。
    2. 大量に不可が出るようならば、授業計画または試験の難易度の設定に失敗したと考えるべきであり、「学力低下」のせいにすべきではない。
  3. 評価を試験一発勝負にしない。
    1. どんな世界でも試験一発勝負というのはよくない。中間試験をやると良い。
    2. 学生がもっとも真面目に勉強するのは試験前である。中間試験をやれば、それだけ真面目に勉強する機会が増える。
    3. 中間試験をやれば、学生は短期目標を持ちやすくなる。
    4. 中間試験をやれば、先生も短期目標を持ちやすくなる。
  4. 講義科目では出席をとらない。
    1. ディスカッションなどのインタラクティブな授業で出席点を入れるのは理にかなっているが、講義科目で出席点を入れるのは理にかなっていない。
    2. 「出席していればとりあえず評価される」なんて馬鹿げた思考を学生に植え付けてはならない。
    3. そもそも時間の無駄である。
  5. できれば課題を出す。
    1. 現在日本の大学の先生が抱える仕事量を考えると、課題を定期的に出すのは非常に困難だが、余力があれば出すにこしたことはない。
    2. 課題が出せないなら中間試験で代用すると良い。
  6. 課題や中間試験は返却すべきである。
    1. 提出させておいて返却しないのは良くない。アメリカの大学では絶対ありえない(授業評価でも「課題などの返却がタイムリーだったかどうか」という項目がある)。
    2. 学生はフィードバックを求めている。
    3. 若人がくだらない占いやらゲームやらが好きなのは、自己評価を常に求めているからである。
    4. 採点する時間が取れない場合は、せめて模範解答を解説すべきである。
  7. 試験は記述式にする。
    1. マーク式でも学生の理解度を測ることは可能。しかし、我々がやるべきことは単に学生の理解度を測ることではなく、理解したことを論理的にプレゼンする能力を鍛えることである。
    2. できない学生はよく「分かっているんですけど、うまく言葉で説明できないんですよ」と言う。しかし、言葉で説明できないならばやっぱり「分かっている」ことにはならない。
    3. 記述式の問題を採点していると、学生の論理的能力の差が非常にはっきりと分かる。できる学生は、ステップを踏んで丁寧に論理を組み立てることができるが、できない学生は結論にいたるステップを乱暴にすっとばしたり、ステップだけを書いて結論を書かない。
    4. 模範解答を提示して、「丁寧にステップを踏むこと」の重要性を強調しなければならない。
  8. 現状「通年4単位/半期2単位」の授業を週2回開講して「半期4単位」授業にする。
    1. 現在の日本の大学生の履修パターンの特異性は、一週間にとる授業科目数が異常に多いということが挙げられる。一般的に、日本の大学1、2年生は週に8〜10の授業を取る(そして3、4年生にとる授業を限りなくゼロに近づけて就活する)。
    2. しかし、一週間にそんなにたくさんの授業をとっても、学びの関心が拡散するばかりで、とてもじゃないが、特定トピックに集中して学習することはできない。時間割をフォローするだけで手一杯である。
    3. 週2回開講にすれば、「一週間の授業時間数」はそのままに、「科目数」を半減することができる。つまり、週に4〜5科目で済むことになる。
    4. これだけ少なければ、一つの科目を深く掘り下げることが可能だし、すべての科目で課題や中間考査が課されていても対処できるだろう。10科目分の中間考査というのは現実的とはいえない。
    5. 現在の日本の大学のスケジュール(半期15〜16週)は詰まり過ぎていて問題なので、半期12週・週二回開講で3単位にする手もあるだろう。
  9. 「プロジェクト」型の授業を増やす
    1. 知識を伝達する講義授業はもちろん必要で、なくしてはならないが、少人数授業では学生に主導権を渡す「プロジェクト」型の授業を増やすべきだろう。
    2. しかし、週ごとに違うグループに発表させるという形式の授業では、発表が当たっていない学生が怠けるので望ましくない。
    3. 一回の授業で、複数グループが発表または議論をし、発表しない学生に発表を評価させるなど、すべての学生が何らかの形で能動的に関わる形が必要だろう。
    4. これについては自分の課題でもあるので、自戒をこめて…。
  10. GPA(成績平均点)制度を定着させる。
    1. 就職の際、大学の成績はまったく顧みられないが、実際には、成績の非常に良い学生と非常に悪い学生は、ともにある種の資質をはっきりと表している。それだけに、大学の成績が完全に無視されている現状はもったいないことだと思う。この現状はひとえに「優良可」の成績評価システムがどういう能力を表しているかを明示することを避けてきた大学の責任だと思うが、なんとか大学の成績に対する社会の評価を「復権」しなければならない。(大学の成績はそんなものではないと主張したいならば、大学の成績はいっそすべて「合否」の二種類に集約してしまうほうがいい。)
    2. そのためにゆるやかな統一基準が必要だろう。すでに多くの大学ではGPA制度が導入されているが、GPAを導入している大学としていない大学では評点の意味合いが異なるので、導入の線で統一したほうがいい。
    3. ちなみに、GPA制度を導入している大学は、「優・良・可・不可」の4段階評価でなく「秀・優・良・可・不可」の5段階評価を取り入れているところが多い。はっきりいって日本の大学の「優」の成績なんてそこそこ真面目にやれば取れる場合が多いが、「秀」は現状ではそこまで簡単に取れない。上位層を評価の上で差異化できるという点で5段階評価導入は大変意義のある制度だが、現状ではGPA計算において、4段階スケールでは「優4・良2・可1・不可0」で計算されるのに対し、5段階スケールでは「秀4・優3・良2・可1・不可0」で計算されることが多い。つまり同じ「優」でも前者は「4点」換算であり、後者は「3点」換算である。このため、5段階評価の方が高い評点を得ることが難しい。
    4. こういった不均一なところ是正しなければ、社会に対して「GPAを評価基準の一つとして考慮してください」とお願いすることはできまい。こういうところで文科省が一声上げて欲しい。

などなど

好き放題書いてしまいました。きっと賛否あるかと思います。また、上記の提案には、実現が比較的簡単なものから、実現が困難なものまで色々なレベルのものが混在しています。ぼくとて、上記が一朝一夕に実現するとは思っていません。

しかし、その中でも、抜本的な入試制度改革はやはり真剣に取り組むべき急務だと思います。ただし、これは(前も書きましたが)大学の自発的な改革によって実現することは非常に難しいと思います。なぜなら、大学は受験においてかならず「上位校ライバル」「同レベルライバル」「下位校ライバル」に挟まれて、そのあやうい均衡の上で受験生集めをやっているからです。他の大学がやっていない、まったく新しい入試制度を一校だけ採用するのはあまりにリスクが高すぎます。だから結局、変化はゆっくりと、本当にゆっくりとしか、進行しません。こればかりは文科省の鶴の一声が必要です。

改革をしなくてもおそらく現行のペーパー入試はいずれ制度として破綻するでしょう。しかしそれがいつになるかは分からないし、また、その「破綻」がどのような「負」の影響をもたらすか、予想もつきません。そういうカタストロフィを待つのではなく、正の影響を見据えて能動的に改革したいものです。もちろん、宮廷大を初めとするトップ校には抵抗があるかもしれません。しかし、センター入試を義務化するだけで、個別入試を廃止する大学は続出するでしょう。

こういう声はまだあまり大きくないようですが、少しでも賛同者が増えてくれると良いなと思っています。