なぜ日本の大学教員には雑用が山ほどあるのか

ひるあんどんさんの「やたら時間がかかる - うだうだ帳」より。

春休みにあれもこれもと思っているのに、雑用でやたら時間がかかる。大学ってどうしてこんなに書類が多いんだろう(しかも手書きの)。どうしてメールで済ませないんだろう。(中略)こんな雑用よりもっと私自身の仕事をさせてほしい。雑用の時間の分、大学は私に本を出したり、もっと一般向きの仕事をしたりして顔を売らせた方がいいと思う。

多くの大学教員が愚痴を言う雑用の多さ。なぜ日本の大学にはかくも雑用が多いのでしょうか。(あでも、手書きの書類ってあんまり書いたことないけど…)

まず第一に、日本の大学は教授会自治/教員自治の考えが強すぎると思いますね。大学のありとあらゆる部署に教員が張り付いているので、シゴトは増えるばかり。第二に、入試業務(作問・採点・入試監督・センター試験監督・高校回り)ですね。

これを解決するには、学長/学部長に強い権限を持たせ、経営/運営はトップに任せて、教員にはそれぞれの分野で力を発揮してもらうというシステムが必要です。

ところが、伝統的に、日本の大学(日本人一般にも言えることですが)には「トップダウン」に対する警戒心が異常に強い。トップに権限を持たせたら暴走するのではないか。職員の権限が強くなり、我々の教育研究環境がめちゃくちゃになるのではないか。そういう疑念があるので、そうならないよう、大学のあらゆる部署には教員がトップに立つことになります。しかし、大学のあり方の多様化にしたがって、さまざまなセンターやら委員会やらが新設される。その一つ一つに教員が張り付く。そりゃシゴトは増えますよ。しかも適材適所とは関係なく、持ち回りでやっているだけなので、ちっともノウハウが蓄積されないし、リーダーシップも発揮されない。

また、日本人の性質として、責任の所在を明確にすることも嫌う。決定したことに対して問題が起こったとき、持ち回りでやっているだけの長が責任を背負うのは辛い。だから、会議をやる。どうでもいい内容でもとりあえず会議を開く。そして、会議の参加者に「いいですね、決定しますよ、あなたたちも共犯ですよ、あとから文句言わないでくださいね」と念を押す。こうして無駄に時間が過ぎていくわけです。

それから、これまた日本人の性質として、「明文化されたルールの奴隷」になりたがるということもありますね。ルールというのは、ある「善き意図と目的」をもって、教育研究環境がより良くなるために作られるものです。ところが、いったん明文化されると、「善き意図・目的」はおいておいて、とにかくその明文化されたルールを「字義通りに適用する」ことが絶対となります。ですから、最初の「善き意図・目的」からすると、ちょっとおかしいのではないか、と思うことがあっても、ルールは絶対ですから、曲げられることがない。その結果、不毛なペーパーワークが増えるということにもつながるわけです。

これらの問題を解決するには、まずは、上に書いたように、トップダウンの形を強くすること、第二に、分権化して各部署の決定権を強くする必要があると思います。

具体的に言えば、大きなことについては学長の決定権を強くし、なんでもかんでも教授会におろさなくて良い形にする。また、部署に教員一人をまんべんなく貼付けるなんてことはやめる。各部署には専門的なスキルを持った有能な職員に長をやってもらい、決定権をもってもらう。これで教員の「雑用」は激減しますよ。そもそも持ち回りで2年任期でころころ変わる教員の「長」で運営するシステムなんて効率悪すぎます。

分権化も進めて、部署の決定権を強化し、なんでも上に伺いを立てなければ決められないという状況も改善することも必要でしょう。とにかく、トップの権限を強くしつつも、機能の分散を進め、特定機能についての部署の決定権を同時に強化することによって、さまざまなことの決定プロセスをシンプル化することが必要でしょう。

入試も、すべて職員にやってもらいましょう。多くのアメリカの大学では、学部入試には教員はノータッチです。専門の、高度なスキルを持った職員が集めてきた学生を、教員がしっかり教育する。それでいいじゃないですか。

とまあ、色々書きましたが、一朝一夕には無理ですね。もしかしたら永遠に無理かもしれません。そもそも、こういう体制が日本の精神文化に馴染むかどうか、それもわかりませんから。

でもとりあえず、「大学のすべての機能に教員が目を光らせる」ということを少しずつ放棄しなければ、雑用は減りませんよ。