Facebookの微妙な日本語

Facebookで良く見る日本語に、どうしても気になって仕方がない文があります。それは以下のような文です。

  『マキさんがタケさんのアルバムにタグ付けされました』

ぼくは最初この文を見たとき、意味が良く分かりませんでした。「タグ付け」は分かるんです。人がアップロードした写真に知り合い(あるいは自分)の顔を見つけたとき、Facebookでは、その写真の中の知った顔に、名前(=タグ)をつけることができるんです(たとえ自分がアップロードした写真じゃなくても、友だちがアップロードした写真なら勝手にタグ付けできる)。写真の中の人間にタグ付けすると、マウスオーバーしたときに、その人の名前がポップアップするんですね。それが「タグ付け」です。「タグを付ける」から「タグ付けする」。それ自体は普通です。

しかし、「タケさんのアルバムに」というところがどうも引っかかる。ぼく自身は、英語版のオリジナルの文

  「Maki was tagged in Take's album」

を見るまで、日本語文が何を意味するか、はっきり分かりませんでした。しかし、「変」だと思うんだけど、「じゃあどう言ったら良いのか」と言われると、答えに詰まってしまう。しかも、何回も当該文を読んでいると、「もしかしたらこういう文もありなんじゃ?」という錯覚にも陥りそうになるんですね。

そこで、困ったときのツイッター様、アンケートを取ってみました。

【言語感覚のアンケート】
Facebookで見られる以下の文

  『マキさんがタケさんのアルバムにタグ付けされました』

の日本語としての自然さを直観で5段階で評価してください!

5=ごく自然な日本語の文である

1=日本語として完全に間違っている

ところが、反応が悪い悪い。もともとぼくの人望のなさもあるんですが、たぶん、この文自体、意味が取りにくくてとっつきにくかったんじゃないかと、あんまり根拠ないけど推測します。

それでも、ツイッターと、某掲示板で6人の方から回答があり、平均は2.2点、幅は「1〜3点」で、4点以上付けた人はいませんでした。サンプル数は少ないものの、ばらけ方の少なさから、ぼくが感じた違和感は個人的なものじゃなかった可能性は高いと結論づけられると思います。

では、なぜこの文が日本語としておかしいのか? アンケートを取った手前、回答してくださった方へのお礼として(?)解説したいと思います。といっても超長文なので、読みづらいと思いますが…。

まず、元の文を(a)とします。

(a) MakiさんがTakeさんのアルバムにタグ付けされました。

この文は受け身文です。ということは、この受け身文の元となる能動文があるはず。まずはその視点から(a)を考えてみましょう。

(a)のもとになる能動文を斬る!

「タグ付けされた」の能動態は「タグ付けする」です。「タグ付けする」を使った文として考えられるのは、以下のような文です。

(b) 誰かがTakeさんのアルバムにタグ付けしました。
(c) 誰かがMakiさんをタグ付けしました。
(d) 誰かがMakiさんにタグ付けしました。

いずれの文も自然です。しかし、以上の(b)〜(d)からは(a)は出てきません。(a)のもとになる文は以下のような、(b)と(c)を合体させたような文である「はず」です。

(e) 誰かがTakeさんのアルバムにMakiさんをタグ付けしました。

しかし、これは不自然な文です。というのは、普通、「XにYを〜した」という場合、「Xに対して、Yを付与する、与える、移動させる」といった意味になるはずだからです(例外あり)。たとえば、「お父さんに手紙を送る」とか、「彼にチョコレートを上げる」とか。「に」というのは英語の「to」に相当する、専門的に言えば「与格」であり、英語でも「動詞 Y to X」といえば、ふつうYをXに移動させるという意味になります(give flowers to her, send a letter to Dad, etc.)。日本語の「Xに」、英語の「to X」というのは、Yの「ゴール」と解釈するのが普通なのです。(日本語にはゴールだけでなくソースの読みも可能ですが…)

しかるに、(e)にはそんな意味はありません。Makiさんをアルバムに移動させるといった意味はまったくないのです。(e)のような用法を持つ日本語の動詞は(ぼくが思いつく範囲では)存在しません。(b)、(c)のように、別々に言えばOKなんですが、それらを合体させるのは変なのです。

ちなみに、「XにYを〜する」という形の述語は、ふつう「YをXに〜する」と言い換えてもおかしなことにはなりません。

(f) 誰かがMakiさんに花を贈りました。
(g) 誰かが花をMakiさんに送りました。

どちらもおかしくありません。しかし、(e)を同じように語順入れ替えすると…

(h) 誰かがMakiさんをTakeさんのアルバムにタグ付けしました。

相当ヒドい文になってしまいます。このことからも(e)の特異性が分かるでしょう(なぜ(e)の方が(h)よりマシなのかは、簡単に答えが出る問題ではありませんが)。

ということで、(a)がおかしいのは、対応する能動文である(e)(や(h))がそもそもおかしいから、ということになります。

対応する能動文がないと考えた場合

しかしこう反論するひともいるかもしれません。「上記は、対応する能動文がおかしいから受け身文もおかしい、というロジックだが、日本語の受け身文には、元になる能動文が存在しない場合もある。その場合、どう考えたらいいのか?」

確かに、日本語は、英語では絶対つくれないような受け身文を作ることができます。

たとえば、英語では「She cried」から受け身文を作ることができません。英語では(大雑把にいえば)目的語がなければ受け身を作れないので、「cry」みたいな自動詞では受け身文は作れません。

ところが、日本語では「彼女が泣いた」みたいな自動詞文からでも「男が彼女に泣かれた」という受け身文を作ることができます。日本語では、能動文には存在しない登場人物を主語にして受け身をつくるという荒技が可能なのです。

(i) 「田中さんは長男が先生にたいそう褒められた」(cf. 先生が長男を褒めた)
(j) 「ぼくはライバルに金メダルをさらわれた」(cf. ライバルが金メダルをさらった)
(k) 「男が彼女に泣かれた」(cf. 彼女が泣いた)
(l) 「ぼくは今日雨に降られた」(cf. 今日雨が降った)
(m) 「彼女は夫に死なれた」(cf. 夫が死んだ)

ということは、(a)の文も、同じように考えることはできまいか? つまり、以下の文

(a')「誰かがTakeさんのアルバムにタグ付けした」

をベースに、「Makiさんが」という主語をくっつけて受け身にしたのが(a)ではないか、ということです。もしそれが可能なら、(a')自体はおかしくないので、(a)の文だっておかしくない、ということになってしまいます。

しかし精査すると、(a')をもとに(a)が生み出されたという考え方も、少々おかしいということがわかります。

まず、いくら日本語が「能動文にはない人物を主語にして受け身文を作ることができる」といっても、なんでもかんでもできるわけではありません。たとえば、

(n) 中日ドラゴンズが優勝した。

という能動文をもとに、任意の人物、たとえば「小沢一郎」を主語にして受け身にしてみると

(o) 小沢一郎中日ドラゴンズに優勝された。

となりますが、この文はかなり変です。なぜ変かというと、「小沢一郎」と「中日ドラゴンズの優勝」の間に、どのような関係性があるのかが不明だからです。ただ、もしドラゴンズの優勝によって、小沢一郎野球賭博で大損してしまうなら、(o)のようなことが言えるかもしれません。つまり、このような、「荒技的受け身文」が成立するためには、受け身文の主語が、出来事によってはっきりとした損失(または利益)を得る解釈が可能である場合に限るのです。

もうちょっと(a)に近い例を見てみましょう。「タグ付け」という概念は分かりにくいので、似た構文を取る「落書きする」という動詞を考えてみましょう。

(p) 田中君が教科書に落書きされた。(cf. 誰かが教科書に落書きした)

これは、「荒技的受け身文」です。なぜなら、受け身文の主語は、()内に示した能動文には存在しない外様だからです。

で、この文の解釈はどうでしょうか? 「教科書」が誰のものか、(p)には明示してありませんが、いったい誰の教科書なんでしょう? あきらかに、これは、田中君が、「自分の教科書」に落書きをされて迷惑を被ったという意味になります。なぜ「自分の教科書」という解釈になるのかというと、自分の教科書でなければ、落書きされてどういう被害を被るのか、想像しがたいからです。その証拠に、

(q) 田中君が佐藤さんの教科書に落書きされた。

とすると、とたんに、訳がわからなくなります。

同じことが「タグ付け」にも言えるのではないかと思います。たとえば、

(r) Makiさんがアルバムにタグ付けされました。

というのは自然な文だと思います。では、この「アルバム」は誰のものでしょう。当然Makiさんのものだと解釈されます。つまり、誰かがMakiさんのアルバムにタグ付けすることによって、Makiさんが利益(または迷惑?)を被ったというように素直に解釈できます。ところが、

(a) MakiさんがTakeさんのアルバムにタグ付けされました。

というと、とたんに奇妙な感覚に囚われます。Takeさんのアルバムにタグがついたとして、Makiさんにどういう影響があるの?! よくわかんねえ!…ということになるかと思います。

よって、(a')をもとに(a)を作るのは、やっぱり変だという理屈になるのです。

ちなみに、ツイッターでうでやんが興味深いことを言っていました。いわく、以下のようにすればまだ分かる、ということです。

(s) MakiさんがTakeさんのアルバムにタグを付けられました。

この文がなぜ(a)よりマシに聞こえるのかと言うと、それはこの場合、「タグを」という目的語があり、その「タグ」をMakiさんの「タグ」であるという、所有格的な解釈が可能だからです。つまり、「誰かがTakeさんのアルバムに(Makiさんの)タグを付けた」と素直に考えることができるので、Makiさんが利益または被害を被った、という解釈がしやすくなるんです。

「タグ付けした」から「タグを付けた」というように分解するだけで、「Makiさん」と「タグ」の密接な関係を類推しやすくなるのですから、ことばというのはまっこと不思議なものだと言うことができるでしょう。

以上。