企業はタスク遂行能力の指標の一つとして大学の成績を参考にしてほしい

下の記事、なかなかおもしろく読みました。

就職待合室はいらない : アゴラ - ライブドアブログ

週刊ダイヤモンド特集「就活の虚実」に、人気企業100社のアンケート調査結果「採用で最重視する資質」という調査が掲載されている。

コミュニケーション能力、熱意、意欲、主体性、行動力などという、どうやって評価しているのかわからない(どうやって開発できるのかもわからない)項目が過半数を占める一方、学業成績、表現力、外国語能力はゼロである。大学が開発しうる能力は、誰も評価しない。

これについては同意。企業は「大学は即戦力育成を」と言うが、人事自体、「即戦力」とは何かを分かっていないと疑われる節があり、それが「コミュニケーション能力、熱意、意欲、主体性、行動力」という抽象的なことばに如実に表れている気がします。

就職の人事は「コミュニケーション能力」と連呼するけれども、そのことばを発することで思考停止してはいないか。「コミュニケーション能力」が何を意味するのか、あるいはそれが何で構成されているのか、ちゃんと説明できる人はいるのでしょうか。

学生さんは「コミュニケーション能力」と言われると、「人付き合いをうまくやる能力」「リア充力」などと矮小化してとらえてしまう傾向がありますが、人事はそれを分かっているのでしょうか。

企業が求める能力は、究極的には「タスク遂行能力」だとぼくは理解しています(間違っているかもしれませんが)。その一部がコミュニケーション能力なのではないか。しかし、学生は物事を俯瞰で捉える能力が我々おっさんより劣っているので(そりゃそうだ、世の中のことを良く知らないのだから)、「コミュニケーション能力」とか「主体性」とか言われても、何が求められているかピンとこないんですよね。もうちょっと学生に響くことばを使えないものでしょうか。

ところで、件の記事で一つ、誤った記述があります。それは、

大学の機能とは、入学試験におけるラベリングと、就職待合室以上のものではない

という部分で、もしこれが本当なら、企業は学生を、卒業を待たずどんどん採用すれば良いはずです。しかし、現実には「学卒」の資格は就活では非常に大きな重みを持ちます。毎年、卒業の時期に、単位のことで泣きついてくる学生がいるのは、卒業できなければ内定が取り消されるからであります。もし大学の機能が入学試験におけるラベリングと就職待合室「のみ」であれば、学卒資格も無価値なはずです。

しかし、学卒資格は、企業の人事にとって大きな意味を持っています。なぜか。それは、学卒資格を得ることが「タスク遂行能力」の評価の一つを構成していると考えられているからです。大学教育を軽視している人事でも、「大学卒業に失敗するようじゃ、こいつのタスク遂行能力は駄目だ」と考えるわけです。

ここで企業の人事の方に、一歩踏み込んで、「タスク遂行能力の現れ」として、大学の成績というものを再評価して欲しいと考えます。

これまで企業の人事の方は、「大学教育の内容は社会と関係内から」と、「内容」指向で大学教育を捨象してきました。しかし、内容よりも、「大学からこの人物はどのように評価を得たか」という、タスク達成という側面から大学でのアカデミックパフォーマンスに目を向けて欲しい。

もちろん、企業側には、大学の成績評価システムに不信感があり、大学側は「成績は何の指標にもならない」という(かなりの部分、自業自得な)汚名を返上する努力をしなければなりません。で、実際には、大学はその汚名を返上するための努力を少しずつしています。少なくとも、現在の人事の方が大学生だったころとはかなり様変わりしています。

しかし、大学側にも、あと一歩踏み込んだ改革がやはり必要でしょう。ぼくの考えでは、こここそに、日本のお家芸である「お上の鶴の一声」が欲しいところです。つまり、「大学の成績評価システム」の統一的な指針を緩やかで構わないのでお上が作って、社会に説明してほしい。そうすれば企業も多少は再評価してくれるかもしれません。

具体的には、(1)成績は、90点以上、80点以上、70点以上、60点以上、それ以外、の5段階評価とする、(2)名称はABCDFとする(つまり、90-99点はA、80-89点はB)とする、といった簡単なことでけっこうです。

(1)に関しては、日本はかつては80点以上は優/Aという4段階評価をとってきましたが、アメリカ式に80と90の違いを区別することにより、教員・学生双方の成績評価に対する意識を高める効果が期待されます。ぼくの勤務校はすでに5段階評価に移行していますが、その実感として、90のラインを設定するのはなかなかに難しく、ある意味、学生と教員の間の真剣勝負となります。かつて以上に、成績評価に真剣に向かい合わなければならないという、良い意味の刺激があります。

(2)に関しては、5段階評価のそれぞれがどういう位置づけかに関するコンセンサスを得やすいというメリットがあります。勤務校では「秀優良可不可」という名称ですが、これでは「秀」と「優」の位置づけが不明確で、教員の間で混乱が生じています。ある教員は「優がAで、秀は特A」と言えば、他の教員は「秀がAで、優はB」と言う。ここは国際基準に近づけて、90以上がA、80以上はBという名称をつけて統一してほしい。80点代が「優」だと、それが良い成績なんだかどうなんだか良くわかりませんが、「B」という名で呼ばれれば、それは、日本人の言語感覚からして「80点取ってもそんなに良いもんじゃない」というおおよその統一理解が得られるでしょう。ただし、大学によって「優」だったり「B」だったりでは、成績評価に対する理解がまちまちということになるので、ここは文科省に「ABCDFに統一」ということで締めてもらいたいところです。

とまれ、大学の成績をタスク遂行能力のゆるやかな反映として再評価してほしいというのがポイントでした。そして、人事部は自分の学生時代を基準にして大学を評価しないでほしい。

なお、大学の成績(GPA=Grade Point Average)が絶対と言いたいわけではもちろんありません。GPA2.7と3.1の差は、学生の能力という点からするとはっきりいって、さほどありません。2.7の学生の方が3.1の学生より賢いという例も多数存在します。

しかし、GPA1.1と2.7の違いはかなり大きいといえるでしょう。1.1というのは、その学生が「アホ」であるか、「アホじゃないけどいい加減、ズボラ」であるという可能性が高い(「可能性が高い」だけで「絶対そう」とは限りませんが…それはどんな指標についてもいえること)。快活で外面は良いが、言ったことをまったく実行せず、言い逃ればかりしようとする「狼少年」タイプの学生も前者の学生に散見されます。逆に、GPA 2.7ぐらいの学生なら、そういうタイプはまずいません。

よくあるんですよね。前者の学生が就職決まったりすると、教員は「可哀想に…」と採用した会社に哀れみを感じるんですよ。「良くこんなの採用するな」と。そういう「スカ」を掴まないためにも、選考の際に、ちょっとGPAを見てくれればいいと思んです。あくまで一つの材料として。

まあ、アホでも嘘つきでも外面が明るければ社会でやっていける、というなら別ですが。そうなんですか?