言葉がみせるまぼろし/「精神」と「こころ」

精神というのは恐ろしい。精神はありとあらゆるまぼろしを見せてくれる。しかし我々はその幻を通してしか世界を知ることはできないのです。

しかしもっと恐ろしい真実とは…精神というもの自体がまぼろしだったということだそうな。

めでたしめでたし。

さてここで問題です。オレはどういう意味で「精神」という言葉を使っているのでしょう。

答えは…まあ書いてしまうのも野暮ですね。

言葉というのは魔物でして、言葉こそ人々が何千年もかけて形にしたまぼろしであります。その中には必ず一握りの真実が隠されていますが、その言葉の指すものそのものが真実であることはまずありません。言葉が見せてくれるものは真実を含んだまぼろしにすぎません。

しかし、実生活の上ではそのまぼろしの上で生きていても何の問題もないばかりか、その方が生きやすかったりします。生きて行くのに真実を知る必要はまったくないのです。宗教に心の安穏を見いだす人が真実を知る必要がないのと同じことですね。真実を知ったって大して良いことはありませんよ、本当の話。

そこをあえて真実を追求しようとするのが学者と呼ばれる人種です。ですから学者の最初の仕事は言葉のまぼろしを振り切ることです。学者が「専門用語」を使うのは話を難しく見せるためではなく、言葉のまぼろしを振り切って真実を見極めるためです。もちろん、真実を見極めるために学者が一生懸命つくった「専門用語」が新たなまぼろしを見せることも多々ありますので、真実を見ようとする営みは常に言葉のまぼろしとの闘いがつきまとうわけです。

たとえば言語学者なら「言葉」という言葉の意味についてまず徹底的に議論することから始めなければならないし、哲学者なら「存在」や「意味」という言葉を使うにあたっては最大限の慎重さが要求されます。いやいや、哲学者でなくてもどんな学者でも「存在」や「意味」という言葉を軽々しく使うことは許されませんけれども。その意味哲学というのはあらゆる学問の礎でありまして、様々な分野の学問で「おっと、その言葉を軽々しく使ってはいけませんよ」と常に警鐘を鳴らしてくれる存在なのです。

で、日本語の「精神」という言葉もやっかいですね。「精神」という言葉は非常に多義的であるのに、人々はそれを意識さえしない。「精神」という言葉に無批判なまま精神について語る言説が世の中にまかり通ってますが、対象が対象だけに一歩間違えれば「トンデモ」へ一直線です。

ところで欧米では近年「mind」の研究がかなり進んでいます。臨床ではなく、認知的な研究です。もちろんかなり進んでいるといっても未知の部分がほとんどでありますが、それでも50年前と今とを比べると飛躍的な進歩を遂げていると言えるでしょう。オレのふだんの言説もこの流れの影響を多分に受けていることは見る人が見ればモロバレでしょうね。ははは。

で、「mind」とは日本語で言えば何なのか。これまた難しい問題です。専門家の間では「こころ」と訳されることが多いように思います。「精神」より「こころ」が好まれるのは何故なのか、興味深いところです。いや、まじで何故なんでしょうね。「精神」では臨床のイメージが強すぎるのかな。あるいは、「精神」という言葉だと、肉体から遊離した神秘的存在だという印象が強すぎるのか。

その点、「こころ」という言葉はこれまであまり学問的専門用語として扱われたことがないようですので(オレが知らないだけかもしれませんが)、まだ手あかにまみれてなくて良いということでしょうか。

しかし、「こころ」というと、心臓と結びつけられたイメージもありますから、脳と直結した近年の「mind」研究の訳語としてはちょっと不思議という感じがします。

斯様に言葉というのは難しいものでありまして…。(収拾がつかなくなってきたのでとりあえずこのあたりで逃げます)