教育再生会議に不足している議論

さて、前回の続きですが。

オレは教育再生会議の提言すべてに反対というわけではありません。まあ、ボランティア活動導入に関してはちょっと否定的な意見を持ってますが。本来定義上「自主的」にやることを半ば「強要」することになるわけですから、その根本的理念をあやうくするリスクを犯してまで導入したときの効果について、実証的検討が必要だと思います。思いつきで導入して効果がなかったとなれば、日本のボランティア活動全般に対する悪影響が大きすぎます。

それ以外では、例えば大学の9月入学、まあいいんじゃないですか。読書の時間を増やす。けっこうなことです。郷土教育。まあ、別に反対する理由もありません。家族の日や、家族週間や家族月間を制定または運動としていく。けっこうなことです。

でもね、前回も言ったけど、ズレてる。

教育再生は安倍内閣の「緊急課題」として、「明確な理念だけでなく、それを実現する具体的な対策を提言」するのが目標なわけですが、その「具体的な方策」が、実に表層的で。「家族の大切さを分かってもらう」→「家族の日」、「協調精神の大切さ」→「ボランティアや30人31脚(笑)」とかね、結局「〜をやらせよう」というレベルで終わっているわけです。「やらせればきっと効果がある」という意味不明な楽観性に基づいている。

例えば、「家族」の大切さをもっと分かってもらうために「家族週間」なんかを打ち出すのはまあいいですよ。でも、安倍政権は「経済成長重視」で、「労働者には多少の苦い思いをしてもらう」「競争で能力別給与を」といった理念・方針を明確にしているのに、「ほら、お父さん、家族を大切にして!」って言ったって、そりゃ仕事でボロボロになっているお父さんに酷な要求でしょう。

いや、オレは別に労働者への厚生を手厚くしろと必ずしも言いたいわけじゃないですよ。オレは以前も言ったように、理念的にはリバタリアンに近いので、競争、けっこうなことじゃないですかと思う方です。ただ、政府が家庭教育にまで口出すつもりなら、まず全国の労働者が家族に時間をたっぷり裂ける労働環境をまず整備するのが筋じゃないの? それをせず、逆に経済成長重視を打ち出すんだったら、政府が家庭に綺麗ごと押し付けんなと言いたい。

おっと、家族の話をしたいんじゃなかった。

教育システムの話です。

前回、「現場」(生徒・親・学校)の優先課題、つまり、生徒がどういう進路を選ぶかという最優先問題を無視しての「あれやれ、これやれ」型改革は結局根付かないだろうということを書きました。その優先課題=子の進路は結局、教育システムの構造に縛られているわけで、その構造的問題を考える必要があるはずなのです。

この「構造的問題」は、教育再生会議でも、問題意識としてないわけではないのです。例えば、本会議・第2回の議事録には以下のような言葉があります。

○葛西委員[注:東海旅客鉄道株式会社代表取締役会長] 最近、教育の目的を考える際に、企業側から大学に対する要請として「大学は即戦力になる人間を養成して欲しい」という話をよく聞く。しかし「即戦力」とはある特定のことにしか役に立たないというのと同義であり、当社は採用にあたり、「即戦力」になるようなことはあり得ない[注:会社での実践的なことがらは会社に入って経験を踏まなければならない]のです。(中略) ですから、「即戦力教育」という、ちょっと前の風潮には絶対に影響されないようにした方がよろしいのではないかと思います。

この葛西さんという方は他のところでも良いことを言っています。で、これを受けて野依座長(独立行政法人理化学研究所理事長)と白石真澄氏(東洋大学経済学部教授)は以下のように述べています。

○野依座長 産業界から御意見がありましたので、一つ注文をさせていただきたいと思います。
今、大学院の話が出ましたけれども、青田刈りは是非やめていただきたいと思います。日本の場合には、理工系ではマスターへ入りまして1年の今ごろからもう青田刈りされているわけです。ですから、これで大学院の教育はずたずたです。全然、講義もできないし、実験教育もできないわけです。
私は、日本化学会の会長をしておりましたときに、当時の奥田経団連会長に申し入れまして、よくわかったと言われながら実行していただいておりません。是非、産業界も教育に是非、御助力・御尽力いただきたいと思います。

○白石委員 (中略)今の野依座長の御発言に関連してでございますが、大学1年生が入ってくると、大体、半年は大学に慣れるためのいろいろなイベントがございます。3年生の初めになると、もう就職活動で、ほとんど大学に来ない。そういうのを考えますと、今、子どもたちというのは促成栽培の方向に走っているのではないかと思います。

このあたり、大学教育の現場にいる人間にとっては魂の叫びとも言えることで、激しく同調せざるを得ないところです。もちろん、ここには、産業界・経済界から軽視される大学を作ってしまった大学そして教員の責任も果てしなく大きく、猛省せねばならないところでもあるのですが、言いたいのは、結局、「教育再生」の方策を云々する以前に、すでに教育というものが軽視される構造が出来上がっているということが問題なのです。

例えば、大学の現場では、4年生の前期は就職活動でまったく大学に来なくなる学生が続出し、ゼミなどはほとんど成立しないような事態が生じます。しかも、彼ら彼女らは、あたかも当然の権利あるかのように「就職説明会がありますので、授業を休ませていただきます」と一方的に宣告してきます。

しかし、それも彼ら彼女らの立場になってみれば、ある意味当然なのです。なぜなら、「今受けている教育より、将来の就職の方が緊急のことであり、大切だから」です。しかも、企業が平気で平日の昼間に説明会や面接を行う現状では、彼ら・彼女らがそれに抗うすべはまったくないのです。

このように、大学教育は経済界によって踏みにじられ、学生の側も自然と「まあ就職できれば大学の教育なんて関係ないよね」という意識が浸透する自体になっていますが、これは大学関係者の愚痴では終わりません。結局、ほとんど同じ構造が大学と高校、そして高校と中学の間で成り立っているのです。

つまりですね、望むと望まざるに関わらず、大学受験の存在は、高校教育に大きくのしかかっているわけです。大学生が「就職できれば大学の教育なんてどうでも良い」と思っているのと同様、高校生は「大学受験に受かれば高校教育なんてどうでも良い」と思っている(ことがある)。履修偽装問題も同根ですよね。

同様に、高校受験は中学教育にも大きくのしかかっている。まあ中学生は高校生ほど現実に対してスレていないから、まだ素直なところはあると思いますが。

※もちろん、進学しない子の場合、また話が別ですが、教育再生会議で、高校や大学に進学する子とそうでない子を切り分けた議論は皆無であるようで、そこからして問題ではないか。

結局ですね、政府から降りてくる「教育目標」が、子や親の「勉強する目的」と根本的にズレていて、そのズレを修正しようという議論が皆無でないにしろ重視されていないのが決定的に駄目なところなわけです。

この「ズレ」をなくすことはおそらく不可能でしょうが、小さくすることは可能なはずです。

例えば、ボランティアをやったとして、それが何になるのか? 見返りを求めないのがボランティアだ、協調精神だけ学べればそれでいいんだと言う人がいるかもしれません。しかし、人間というものが根本的に実利的な原則につきうごかされやすいものである以上、「ボランティアをしたら何になるのか」というところがはっきりしないとそういう活動は広がらない。やらせればいいというのではいかにも底が浅い。

これに関することとして、本会議の第2回の議事録に以下のような発言があります。

○川勝委員[注:国際日本文化研究センター教授]ボランティア活動、奉仕活動はとても大事です。ボランティアを既にしている青年がたくさんいます。しかも制度的に試験を通ってやっている。青年海外協力隊です。試験を受けて、毎年1,000 人ほどの若者が2年間も開発途上国に行って、生活環境とか、自然環境をよくするために頑張っている。その青年たちは毎年5回ほどのレポートを書いて、そして、自動車にも乗らないで、現地でホームステイをしたりして学びながら奉仕活動をしているわけです。その青年たちをどう評価するか。評価していません。恐らくJICA[注:独立行政法人 国際協力機構]の総裁が修了証書を出すだけではないでしょうか。
(中略)
○門川委員[京都市教育委員会教育長]今、JICAの話がありましたけれども、頑張ってきた人が帰って来られても就職が厳しいのです。(中略)両面あります。組織プレーは無理かなというタイプの人も中にはいらっしゃるが、すばらしい人がたくさんいらっしゃいます。厳正に選考[注:京都市の教員採用でのJICA特別枠のこと]しています。国家公務員でも、教員でも、そういう志高く海外で貢献してきた人を優先採用するようなシステムをつくれば、JICAへの志願者は増えます。

ボランティア活動に、将来についての打算・計算が入り込むなんて、理想論的にはふさわしくないことのように思えるかもしれませんが、現実として、人は食べて行かなければ死んでしまうわけですから、やはり「現実的なインセンティブ」は絶対必要であるわけです。

それはJICAの話だけではない。すべての活動に関連することで、もし政府が子たちに「これをやってもらいたい」と思うなら、その先に何があるのか、どんな良いことがあるのかという「理念」以外の「現実」を示せなければ、現場に定着することはないでしょう。

例えば、ボランティアを半強制として中高の教育カリキュラムに組み込んだとしても、「国で決まっているからやらなければいけない」というだけであれば、生徒さんたちは、中学あるいは高校を卒業した瞬間「もうあのクソうっとおしいボランティアやらなくてすむぜ!やった!」という開放感を感じるだけでしょう。「つべこべいわせずボランティアやらせれば、協調精神が身に付くんだ」って、教育ってそんな簡単なものじゃないでしょう。

ボランティアを有機的にカリキュラムに組み込むなら、強制にすべきでなく、現金な話ですが、ボランティアをやることによって自分の進路にとってプラスになるというシステムを用意すべきでしょう。もちろん、これもボランティアの精神からちょっとはずれていますが、(進路にプラスになるという)下心があったとしても、自分で選択する形になるのだから、カリキュラムの取り入れ方としては、全員強制よりはるかにマシ。

他の教育も同じ。大学教育を再生するには大学自体が変わるだけでなく、経済界が学生が大学でどのような成績を上げたかということを評価する体制をつくる必要があり、そのことによって大学の勉強に力を入れるというインセンティブを作ることができる。ボランティア強制という頓珍漢な提案を押す池田守男氏(座長代理・株式会社資生堂相談役)もこの点については、

(池田委員) 企業が変わり、大学が変われば、当然、高校、中学と下りていく。上から変える必要もあると思う。

と良いことを言っています。

大学受験も抜本的に見直すべきでしょう。現在の方式では、高校生は高校の指導要項ではなく、入試科目のみに目が向くことになります。この状況ではいくら文科省がああだこうだとカリキュラムをいじっても無意味です。これについても、前回の塾禁止の議論の延長として、入試廃止論が提案されています。

(事務局) 入試をやめて、卒業試験にすれば塾はいらなくなるかもしれない。塾禁止が先ではない。

(中略)

(渡邉委員) 大学受験を卒業にもって行くとか、ゴールを変えることによって塾のあり方は大きく変わる。塾禁止はそういう形で実現できるのではないか。

(野依座長) 大学と高校の信頼関係が大事。高校が書いた成績書が信頼できないから、もう一度テストをすることをやっている。

(中略)

(門川委員) 飛び級的なものもやったらいいという意見があるが、日本では、それを目指してまた塾に行くなんて事にもなり、難しい。

(野依座長) それはやり方の問題。みんなが上昇志向を持つことは大事。

(小宮山委員) 制度を変えた時にどうなるかをよくシミュレーションする必要がある。日本で大学入試をやめてどうなるか。結局勉強しなくなるだけ。教育改革は現状を良く見ながらやらないと間違える。

(陰山委員) 何でそういうことになるかというと、競争だから。競争に勝つために掟破りをする。何時に寝ようが、徹夜しようが合格すればいい。それでやってもテストではいい点を取るかもしれないが、本当の基礎力はついてない。

(小宮山委員) 大学もまずやることは、入試をやめることではなく、卒業をきちんと認定していくこと。企業も大学で採用するのではなく、人をきちんと見て採用して欲しい。

(野依座長) 入学試験のあり方もいろいろあると思う。これからワールドワイドな頭脳獲得合戦になった場合、全員試験する訳にいかない。アメリカの一流の大学院では試験はしていない。

(小宮山委員) している。面接で厳しい試験をしている。

などと、「規範意識・家族・地域教育再生」を話し合う第2分科会なのに話がどんどん高等教育の方に脱線していますが、オレ自身はこここそが肝心、ここをなんとかしないと、高校教育、さらには中学教育が変わらないと思っているので、もっとちゃんとした場でちゃんと議論してほしい。

このあたりのやりとりでおもしろいのは、ノーベル賞受賞者である野依座長が、日本の高等教育に非常に危機感を感じていて(つまり日本の大学が世界的に見てレベルが低いという危機感)、思い切った改革や変更を容認する発言をしているのに対し、東京大学総長の小宮山宏氏が入試廃止に否定的であるなど、わりに保守的なスタンスであることであります。

日本の大学は序列に敏感で、上位校が動けば下位校も動くという構図なんで、東大が率先して動いてほしいんだけどなあ。

オレは以前から主張しているように、現在の入試制度廃止論者であります。てゆうか、これがなくならないと何の問題も解決しない。逆に、ここをいじれば多くが解決する。大学個別の試験は廃止。センター試験をアメリカのSATのような形にして、年複数回受験できるようにして、すべての大学がそれを利用する。世界史も情報も、高校のカリキュラムで必要な科目はすべて受験必須とする。これで未履修問題が解決。文科省の決めたカリキュラムを高校も高校生も喜んで遵守しますよ。ペーパーテストの負担を減らすことによって、教科の学習方法も変わるでしょう。表現、課外活動、ボランティアなども入試判定に含めればいいじゃないですか。

とオレは思っています。

小宮山さんは入試がなくなると学力が低下するという危惧をもっていて、それもわからないでもない。オレの勤務校レベルなら、センター試験レベルで十分なのだが、東大レベルだと受験生の学力はセンター試験レベルでは差が出なくて計れない。つまり、東大受験生にとっては、二次試験がなくなればはっきりと対策すべき試験のレベルが下がることになるので、勉強量が減るのではないかと危惧する気持ちはよく分かります。また、東大の試験はとても良い問題なので、なくすのはもったいないという側面もあります。

しかし、現在、入試のレベルがセンター試験レベルを完全に超えている大学は数の上ではごく少数派であるはずで、そのあたり、工夫すればなんとかなる方法があるのではないでしょうか。事実、ハーバード、イエール、プリンストンなどの一流校を含め、アメリカで「二次試験」を課している大学はおそらく一校も存在しません。

ただ、よく知られるように、このように二次試験を廃止すると、一次試験以外の要因(願書に添付する志望動機やエッセイ、推薦状、課外活動記録など)を評価する必要があるので、面接の必要性も含め、入試事務の仕事は一気に増え、当然人件費その他、予算を思い切って増やす必要があります。アメリカでは教員は入試に一切タッチせず、入試専攻を一手に引き受ける入試事務室(アドミッションズ・オフィス)が特別な地位を占めています。そりゃそうだ、大学の将来を左右する部署ですから。

予算も手間もかかるでしょうが、多次元的に高校生を評価するシステムこそ、「美しい国(笑)」実現のために必要なシステムなんじゃないの? そこにどーんと予算をつぎこみましょうよ。

まあ、入試廃止には現実的には非常に多くの問題があると思うけど、お偉いさんが雁首そろえてボランティア必修とか30人31脚とかトボケたこと議論する暇あったらこのあたりをなんとかしろよというのが本音です。

いじょ。