グラン・トリノ (2008) ★★★★

評判の良いイーストウッド監督・主演作品。イーストウッド最後の主演作品?

クリント・イーストウッドはぼくの最も好きな映画人の一人で、特に彼のウェスタン作品は最初期の「荒野の用心棒」(1964)からオスカーをとった「許されざる者」(1992)まで、ぼくにとって本当に大切な作品だ。それだから、彼が78歳になってもなお、監督として衰えることなく第一線の映画を情熱的に撮り続け、そして、俳優としてカメラの前に立ってくれることに対して、有り難いことだと思ってしまう。この作品は彼の最後の主演作品だというから(もちろん前言をひるがえして戻ってきて欲しいが)、この偉大な俳優の最期を、襟を正す思いで、かみしめるように味わった。以下がその感想である。

まず、この映画は傑作ではない。しかし、傑作になることをめざして作られた映画でもないので、傑作でなくてもまったく問題はない。これは俳優イーストウッドの、こじんまりとした、あたたかい、身内だけの告別式のような、愛すべき小品である。

古くからのイーストウッド・ファンは、まず、この映画のプロットの「古さ」に驚くだろう。「荒野の用心棒」、「アウトロー」、「ダーティー・ハリー」、「許されざる者」などで何度も繰り返してきた、どこからどう切ってもイーストウッド印の、非常に単純でステレオティピカルな復讐譚である。特に「ならずものに対してなすすべのない弱い異民族に手を貸してやる」という構図は、イーストウッド最初期の主演作「荒野の用心棒」(セルジオ・レオーネ監督。メキシカンギャングに虐げられるメキシコ人一家に、イーストウッドが自らの危険を犯してまで手を貸すプロットがある。ちなみに全体的なプロットは黒澤の「用心棒」のパクリ)の再現のようである。また、問題を自分の手で解決しようとする主人公も、イーストウッドがデビュー以来何度も演じてきて、ここ15年ほど封印してきた、リバタリアン的(自分の問題は自分で解決しろ、国家権力は黙ってろ的な)アンチ・ヒーローの復活である。

これらの「古き良きイーストウッド」の復古は当然意図的なものであろう。なんといっても俳優イーストウッドの告別式、自ら敷いた花道なのである。懐古的になって悪いことなど何もないのである。この映画では、おどろくほど「教科書通り」の、悪く言えば陳腐な演出もそこらかしこに観られる。しかしそんなベタな演出も意図的なもので、「そうそう、昔の映画の演出ってのはこうだったな」と観る人に懐かしく思い起こさせるためにわざとやっているのである。定石通りのプロットも大変良くできていて、おかしく、悲しく、心暖まる。誰もが肩肘はらず楽しめる作品である。

以上が、表層的な感想。

確かに、この映画はシンプルな映画なのだが、しかし、観終わったあとに映画を反芻すると、複層的な側面があることに気付かされる。

まず、この映画は一見単純な「悪い奴らをやっつける」映画のようであるが、実は「贖罪」というのが一番大きなテーマであることに観終わって気付かされる。このことは映画の結末、ウォルトの最後の行動を観て初めて思いいたるのだ。この映画が「贖罪」の映画であると考えると、なぜ主人公のウォルトが常に人種差別的な発言、特に東洋人をこきおろす悪態をつくのかが分かる。そういう、相手を攻撃する発言をしないと、ウォルトは精神のバランスが保てないのである。自分を人種差別主義者として貶め、他の人種を攻撃しないと、自分の罪の意識につぶされてしまうのである。このウォルトの罪の意識は、教会で懺悔したところで消え去るものでもないのは明らかである。だからウォルトは教会に対しても辛辣だ。おまえが俺の苦しみに対して何ができる。懺悔したら俺は許されるのか。そんな都合の良いことがあるか。俺がかかえる罪の苦しみを救ってくれる者は、俺自身も含めて誰もいない。そう思うからこそウォルトは、誰に対しても気難しく、辛辣なのである。しかし、ウォルトは最後に自分の罪を贖う道を見つける。自分の犯した罪から、初めて解き放たれる時が来るのだ。この段階になって初めてウォルトは教会に行って懺悔をする。そして、その懺悔はあくまで来るべき贖罪の「残余」にすぎない。

かように、贖罪という柱を通して複層的にこの映画を考え直してみると、小品と言えども、味わいが増すのである。

また、「典型的な古典的なイーストウッドの復讐譚」といっても、ウォルトは、今までのイーストウッドアンチヒーローとは決定的に違う点がある。どこが違うのか、あえて書くまい。しかし、この「違い」は、イーストウッドなりの決着なのかと思いをめぐらせると、それはまたそれで味わい深いことである。

これが俳優イーストウッドの最後の主演作品であることをシンボライズする直接的なシーンもある。それもファンには大変感慨深い。

結論。この映画は一見単純な映画で、単純に楽しむようにつくられている。それでいいのだ。その一方で、イーストウッドのファンには特別に感慨を引き起こす仕掛けもいくつもあり、一粒で何度も味わえる。「俳優イーストウッド」の理想的な花道となる佳作だと思う。