「失礼します!」再訪

先日の「失礼します!」のエントリですが、以前のカタカナ語のエントリに比べると反応が小さく、あまり共感を得られなかったことが伺いしれます。実際、ここやみんから出張所でいただいたコメントを拝読しましても、去る者に対して「失礼します」と言うことに対する抵抗感はないというのが一般的であるようで、ここであらためて自分の言語感覚のいい加減さに思い至る次第であります。

さて、とはいえですね、「『失礼します』は移動する側の言葉ではないのか」というぼくの感覚は、たぶん、古くは一般的だったんじゃないかと思います。なぜなら、国語辞典にはそのように記述されているからです。

大辞林 第二版

(1)礼儀を欠く振る舞いをする・こと(さま)。失敬。無作法。
「―なことを言う」「―のないようにもてなす」「先日は―しました」「ちょっと前を―します」

(2)「失礼します」の形で、目上の人の居る場所に入ったり、退出したりする時に言う挨拶の言葉。
「これで―します」

(3)「失礼ですが」の形で、目上の人や未知の人に自分の言動の無作法さをあらかじめわびて言う語。すみませんが。
「―ですが、お年はおいくつですか」「―ですが、鈴木さんでいらっしゃいますか」

大辞泉

1 他人に接する際の心得をわきまえていないこと。礼儀に欠けること。また、そのさま。失敬。「―なやつ」「先日は―しました」

2 他人のもとを立ち去ることのていねいな言い方。「お先に―します」

面接などで去る時に「失礼しました」と言うのは、おそらく1.の用法に入ると思われます。「失礼しました」は過去の自分の行いに対する弁明、「失礼します」はこれから行う行為に対する弁明だと考えられるでしょう。場所に出たり入ったりするときに「失礼します」と言うのは、出入りという行為自体が、相手の環境に波風を立てる行為だという考え方なのだと思います。ちなみに、「大辞林」には「目上の人の居る場所」という保留がついてますが、大辞泉ではついていませんね。

さて、一方で、「その場にとどまる人」が去る人に対して「失礼します」ということも一般的に行われているらしい。辞書には載っていないということは、編纂時には、辞書に掲載するほど広くつかわれていなかったということかもしれません。もしそうだとすると、去る人に「失礼します」と言うのは比較的新しい用法なのかもしれません。

なぜそういう用法が生まれたのかと言えば、ここからは憶測の域を出ませんが、「言語的ギャップ」というものがあったせいではないでしょうか(しつこいようですがあくまで推測であり、間違っているかもしれません)。つまり、目上の人が去っていく場合に、居残る自分が目上の人に何か声をかけるべきなのだけれど、かけるべき言葉がない。そういう場合に発すべき言語表現が存在しない(言語的ギャップ)というわけです。時代劇でいえば、お侍さんが町人の家に寄って去るときは、町人はお侍さんに「わざわざお越し下さってありがとうございました」とか「ありがとうございます」とか言えばいいわけですが、会社の上司が去るのに「ありがとうございました」と言うのもなんかおかしい。だから「失礼します」をこのシチュエーションに当てているということなのではないでしょうか。

言語的ギャップを埋め合わせるためにことばの用法がピンチヒッター的に拡張されることは、一般的に珍しくありません。たとえば、日本語には形容詞の丁寧形が存在しません。動詞なら「行く」に対して「行きます」のように「ます」を付ければいいし、いわゆる形容動詞なら「健康だ」に対して「健康です」のように「です」形にすればいい。ところが、形容詞には丁寧形がない。「美しい」に対して、例えば「美しいと思いました」とか「美しく思います・存じます」、昔なら「美しゅうございます」などと言うことができるけれども、こういった表現が合わない場合もある。だから、苦肉の策で「美しいです」というように形容詞に「です」を付けるという用法が広まったというわけです。つまり、言語的にギャップがあるので、ピンチヒッターとして「です」の用法が拡張したということです。ただ、「美しいだ」とは言えないのに「美しいです」だけが容認されるということに違和感を覚える人は現在でも少なくはないと思います。

話を戻して。

多くの人にとって違和感のないらしい、この「去る者にかける言葉」としての「失礼します」が、なぜぼくの言語知識の一部になりそこなったのかと言うと、(コメント欄にも書きましたが)ぼくが、「上司のいる環境」に身をおいたことがないという環境的要因が考えられるかもしれません。

ぼくは30半ばまで大学院生でしたし、しかも日本にいたのは20代半ばまででした。院生にとって先生は上司っぽい立場かもしれませんが、日本にいたころは院生室というものがなかったので、先生が去っていくのに対して声をかけるというシチュエーションはほぼ皆無でした。アメリカは外国ですので、その間、自分の敬語能力の発達はストップしていたと思われます。

日本に戻ってからは、だいがくの人になったわけですが、だいがくのきょういんの世界というのは、上司がいない世界であります。職階や年功序列はありますが、先輩の先生でも、「上司」ではありません。学科長や学部長は互選ですので、「上司」というのともちょっと違います。理事長は上司と言えるかもしれませんが、そもそも顔を合わせることがほとんどありません。つまり、「上司が立ち去る」シチュエーションをそもそも体験していないと言えます。(年上の先生がぼくの研究室に寄って立ち去る場合は、向こうはわざわざ出向いてくれたわけでしたから「ありがとうございました」と言います。)

ちなみにコメント欄で、「目上が先に帰る場合の『失礼します』は体育会系のノリを感じるんでなんかやだ」という意見もいただきましたが、ぼくは体育会にも所属したことがないので、そういう用法を聞いたことがない。

結局、「目上が立ち去るのに『失礼します』と声をかける」シチュエーションを一切耳にする経験がないままここまで生きて来たということになります。だから、国語辞典の「失礼します」の用法しか身につかなかったんでしょう。

ところで、「目上が立ち去るシチュエーション」に「お疲れさまです」「お疲れさまでした!」などと言うのは、どうでしょうか。これらのことばは「ねぎらい」のことば、つまり目上が目下に掛けることばなのでふさわしくないというご指摘をコメント欄でいただきました。特に年配の方(ぼくも含まれる?!)はそういう意識がある場合もあるかと思います。ただ、若い人は、どうやらバイト先での影響か、目上にも積極的に「お疲れっした!」と言いますね。これはここ数年(といっても何年ぐらい前からの傾向かはわからないのですが)で特に顕著になっており、「さようなら」の代わりに「お疲れさまです!」「お疲れっした!」と言ってくる学生が増えています。ぼくも何回学生に言われたか、数えきれません。また、ウェブを見ても、ビジネスマナーで「お疲れ様でした」は「目上にも使える」(が「ご苦労さま」は「目下にしか使えない」)と教えることが多いという記述を数多くみかけます。

ということで、「お疲れさまです」が「目上から目下へのことば」という意識は、かなり近い将来消えるのではないかと予想されます。すると、今回問題になっている「失礼します」の用法は必要ないことになり、廃れる可能性もあるかも?

などということを、ここ数日間でつらつら考えましたので、ここに書き留めておきたいと思います。