こんどは味噌汁が捏造だったとか、レタスが捏造とか騒いでますね。どんどんやったら良いと思います。根こそぎ吊るし上げると良いでしょう。いかに「偽科学」がいい加減なものか、この際もっと宣伝しておくべきですね。日本人の民度を上げるためにも。
しかし、オレが「吊るし上げろ」と言っているのは、あるある大事典がけしからんから吊るし上げろということではありませんよ。いい加減なのはあるあるだけじゃない。世の中の一般書籍のもっともらしい情報もはっきり言って似たようなもんです。
いつのころからか、「科学」が揶揄されるような世の中になりました。「科学は全能じゃない、万能じゃない」。そして、「科学では説明できないことがある」というアンチ科学がのさばる一方で、今度は「科学的調査でこんな意外なことがわかった!」という偽科学がはびこるようになりました。どちらも「科学」が何を意味しているのかまったくわかっていない点で共通しています。
「科学」とは何か。どうも科学というとSFとか理科の実験室のフラスコとか白衣とか、そういう表層的なイメージばかりが流通している気がします。そんなのは科学の本質じゃない。科学というのは、ごく簡単に乱暴に言ってしまえば、結果に対する原因を特定するという方法論であり、また、それによって確立する知識体系であります。ですから、「科学では説明できないことがある」というのは、「因果関係を特定することは不可能である」=「その結果は偶然であり、原因を特定できない」と言っているのと変わりないわけです。よって、「反科学」を標榜しつつ、例えば「心霊写真」という結果に対して「そこでカップルが首つり自殺をしたから」という原因があることを力説するのはそもそも矛盾しているわけです*1。証明できるんならそれはすなわち科学体系にとりこまれうるんだから。
一方、偽科学というのはこれまたたちが悪い。あるあるの場合は捏造でしたが、捏造しなかったら即科学的と言えるかはまた別の話です。例えば、何かの結果があったとして、その原因と考えられることは無限にあるわけですからね。だから、「この結果はこの原因によって引き起こされたと考えれるのは矛盾がない、つじつまが合う」ということを示すだけでは足りないわけです。
さっきの心霊写真の例でいえば、「その場所でカップルが首つり自殺をした」のが事実で、「心霊写真らしきものが撮影された」のも事実だとして、前者が後者の原因と考えるのは、言ってみれば矛盾はありません。しかし、後者に対する矛盾のない原因の候補は他にも無数あるわけで、「矛盾ない」というのは実は何の証明にもなっていないわけです。
前の例で言えば…「心霊写真らしきものが撮影された」という結果の原因が「その場所でカップルが首つり自殺をした」こと以外ありえないことを証明するためには、まず、その場所で写真を撮ったら必ず心霊写真が撮れることを証明する必要があり、もし撮れないことがあるとすれば、それが何故なのかという理論が必要であり、さらにその理論を証明するデータも必要であります。さらに、全国の首つり自殺の場所でもれなく心霊写真が撮れることも証明しなければならない。
しかし、実際の偽科学はこのような手続きは踏まれません。「AをやったらBになった!」という「実験結果」を出して終わりです。無知な人々はそれを見て、「なるほど、AをやればBになることが科学的に証明されたのか」と騙されることになります。
ちなみに、ちょっと難しいことをいえば、科学実験においては、Aという条件を与えて得られたBという結果と、Aという条件を与えずに得られたB'という結果を比較することが行われます。それで、BとB'が異なれば、Aという条件付けが結果に影響を与えたということが証明されるわけです。しかし、常識的に考えて、たとえまったく同じ条件で同じ実験を何回かやっても結果には少しずつ誤差が出るんですから、条件が違うBとB'が数値的にまったく同一になることは普通まずありえません。ですから、BとB'が違う結果になった!というのでは何の証明にもならないというか、誤差というものが必ずあるんだからBとB'が異なるのは当たり前なわけです。ですから、統計分析を行い、BとB'の違いは誤差なんてものじゃないんだということを証明する必要があります。統計分析で良く使われる基準として「BとB'の違いが誤差で生じたという確率が5%以下ならば、つまり、BとB'の違いはホンモノであるという確率が95%以上であるという分析結果が出れば、BとB'に有意な違いがあると判断してよい」というものがあります。きちんとした、偽科学ではない科学的研究ではこういった基準を設けて、慎重な判断をするわけです。
しかし、この「実験結果がホンモノである可能性95%」というのは、厳しい基準のようでいて実はそうでもないんです。「実験結果がホンモノである可能性95%」ということは、「ホンモノでない可能性も5%」あるわけです。5%というのは、20分の1の確率ですから、言ってみれば、「でたらめな実験や統計分析を繰り返せば、20回に1回は偶発的にホンモノ判定が出てしまうかもしれない」ということです。おそろしいですねえ。ですから、偽科学ではない科学的研究においては、でたらめな実験計画や分析計画を監視するために、方法論と理論体系が蓄積されているわけです。
こう考えてみると、特定の原因によって特定の結果が出ることを証明することは実に大変なことであるわけで、一回スタジオで実験して証明されるなんてものではないわけです。上に述べたように、ランダムに実験しまくれば、いつかは「結果」が出るわけですから。で、結果が出なかった分を隠して結果が出た分だけを放送・出版すれば、あら不思議、偽科学の出来上がりです。
同じことは、歴史本にも言えますね。「Bという歴史的事件が起こったのはAという国民性・民族性のせいである」ということを「証明」するのに、「A→B」を示唆するデータのみを列挙していかにも自分の説が証明されたかのように見せかける書籍が世の中にあふれています。「Bの原因がAであると考えても矛盾はない」というだけでは「Bの原因はAである」ことの証明にならないのは上で述べた通りです。
じゃあ、何を信じたらいいの? とお思いになる方もいらっしゃるでしょう。一つ言えるのは、一般書籍のほとんどは眉唾であるということです。信じてはいけません。何を信用したら良いのかといえば、まずは「学会の定説」を待つことです。もちろん「学会の定説」が正しいとは限りません。しかし、一応学会は何百、何千という学者が論を戦わせている場ですから、我々素人考えよりは幾分かはマシであろうと考えることができます。少なくとも、一般書籍の適当さに比べればはるかにマシです。学会のある程度確立された定説を知るには、名のある研究機関に所属する研究者が執筆した本を読むと良いでしょう。これらはあやしげな「ベストセラー本」に比べるとお固くてつまらないでしょうが、我慢しましょう。真実なんてそうドラマチックではないんです。ちなみに、研究分野の当事者が書いた本である必要があります。マスコミや素人が学会の定説を「紹介」する本はたいてい誤謬や印象操作が含まれています。
あと、もう一つ強調したいのは、名のある研究機関に属する偉い学者が書いている本でも、畑違いの分野について書いている本やら新書やらはやめておいたほうが良いということです。これらは高い確率でトンデモ本です。彼らは自分の分野では慎重になるくせに他の分野では無責任に放言する傾向があります。たちが悪いですね。*2
最後に、もちろんオレは一般書籍を読むことが罪悪だと言っているわけではありません。良心的な本もあるでしょう。ただ、いつでも眉に唾を忘れずに。