ひらり〜・ぱっとなむ講演

院生の一人が企画している大型リーディンググループ(というよりワークショップ)の一環である大物講演の第一弾、ひらり〜・ぱっとなむ編を聴きにいってきました。ちなみに当ultravisitorでは、人名や用語が平仮名で書かれたり変態したりすることがありますが、カワイコぶっているわけではなく、同業者にこのブログの存在をなるべく知られたくないということですので、ご了承ください。(といってもある程度は同業者バレもしてはいるとは思いますが、その場合はこいつ馬鹿なことを書いているなと生暖かい感じで笑って見過ごしてくださいませ。)

この、男なのにひらり〜という名前の老哲学者は、以下の学説でたいへん有名です。
http://en.wikipedia.org/wiki/Twin_Earth_thought_experiment

今回の講演もこれがメインテーマだったんですが、この学説はですね、ここで詳しく書いても書かなくてもどっちにしても一般読者の方は引くと思うので、とりあえず分かっている人にしか分からない程度に簡単に書きますと、上のwikipediaでも書いてあるように、意味のえくすたーなりずむ、つまり、ことばの意味なんてものはアタマのなかにはない、アタマの外、コミュニティーの中にあるんだという考えです。この立場は千代ムスキ〜のにんちかくめい以降のりろんげんごがくの考え方(いんたーなりずむ)と真っ向から対立するものであります。りろんげんごがくの世界では(最近は逆の立場も勢いをとりもどしていますが)いんたーなりずむはほとんど「常識」のように捉えられています。いっぽう、てつがくの世界ではえくすたーなりずむが主流だということらしいので、この溝はどこから来るのかをさぐるのが今回のリーディンググループ(というかワークショップ)のメインテーマなわけです。

で、上のwikipediaにもあるひらり〜・ぱっとなむの有名な思考実験ですが、オレは当該論文を読んでもここから導き出される結論にどうしても納得できなかったんですよね。言語表現の意味、正確には外延は個人の心理的表示で決まるのではない、言語こみゅにてぃなしでは決まらないのだという結論。「水」の外延は、個人の外延決定能力を超えて、専門家を頂点(?)とする言語こみゅにてぃの判断で決まるのだという。しかしこれは本当にいんたーなりずむへの反論になりうるのだろうか? げんごいんたーなりずむを信奉する人々だって、言語の意味が外部こみゅにてぃとの接触なしに個人の中から自然に湧いてくるなんて考える人はいない。たとえば千代ムスキ〜のいんたーなりすと理論モデルには、かくとく部門がはっきりと組み込まれているのですが、かくとくは当然外部こみゅにてぃとの接触によって達成されるものです。つまり、げんごいんたーなりすとの理論モデルには、外部の影響(専門家であれなんであれ)を内部化するメカニズムがあらかじめ組み込まれているわけです。ですから、言葉の外延(たとえば「水」とは何か)が個人の知識を超えたところ、専門家を含めたげんごこみゅにてぃ全体で決定するとしても、いんたーなりすとには特に問題はないとオレは思うのです。問題はその先の結論です。

「言葉の外延(たとえば「水」とは何か)は、個人の知識を超えたところ、専門家を含めたげんごこみゅにてぃ全体で決定する」

 →「よって言葉のいみは頭の中にはないんだ」

とぱっとなむは言います。

しかし、いんたーなりすとならこう言うでしょう。「言葉の外延を、げんごこみゅにてぃが決定する」といっても、意味が心理的な基盤を持たないことの証明にはならないと。意味はやはり心理的基盤を持っており、その心理的基盤が外延を決定するが、もととなる心理的意味は、げんご使用者の同意のもと、専門家やこみゅにてぃの考えに従っていつでもフレキシブルに改訂されるのだと。つまり、「外延は、専門家を含めたげんごこみゅにてぃ全体で決定する」というのは正確な言説ではなく、「外延は、専門家を含めたげんごこみゅにてぃ全体の判断にげんご使用者が同意することによって、心理的に決定する」と言うべきなのだと。言語いんたーなりずむはぱっとなむの論によって必ずしも否定されるわけではないとオレなどは思うわけです。

たぶん今回のエントリ、ここまで来てすでに誰も読んでいないと思いますが、そんなの関係ねえ! 勝手に続けさせていただきます。そういう疑念を持ちつつぱっとなむ本人の講演を聴いたのですが、上記の疑念はまったく払拭できませんでした。むしろ、ぱっとなむ的えくすたーなりずむはやはり誤っているという思いが強くなりました。まず、講演を聴いて強く感じたのが、ぱっとなむの議論は、「水」などの、科学によって実証できる真実を背景に持つ自然物の意味論についてはある程度説得力を持つ(といっても上記の疑念は残りますが)のだけれども、それ以外には無力だということです。会場にはレイ・邪険ドフがいまして、「科学の介在しない、例えば『水たまり』(←だったかな?)のような語の意味論はどうなんだ、動詞の意味はどうなんだ、形容詞はどうなんだ」と質問していたのですが、その質問はもう、まったくもって、実にまっとうな、ある意味当たり前の問題提起でありまして、それに対してぱっとなむは満足の行く答えを提供できていたとは思えない。その時点で、もう、意味のえくすたーなりずむ、全然駄目じゃん、みたいな。少なくとも、いんたーなりずむを完全否定できるところには全然行っていないじゃん、みたいなー。

それともオレがいんたーなりずむに洗脳されすぎているのだろうか。