「そんなこと知って何になるの?」は愚者の問いである

近年、大学などの研究者にも「説明責任」が問われるようになっています。それ自体はけっこうなことだと思うんですよね。やはり税金が投入されるものですし、投入された資金に対し、どのような知見が得られ、どのような成果発表をしたのかをオープンにすることはとても大切なことだと思うんです。そしてこのような認識が広がってきている現状はそれなりに好ましいものだと思います。(そのせいで、成果重視の近視眼的な研究が増えたという問題は残りますが。)

ただ、ともすれば「それが何の役にたつの?」とか「何になるの?」ということまで説明を求められるという風潮には、大きな疑問を感じます。学問研究というものは「これまでに知られていなかったことを新たに発見する」というところに価値の本質があるのであり、その部分に説明責任を果たすべきなのはある意味当然かと思うのですが、「それを知ったからどうなるか?」というところまで説明責任を求められるとなると、正直、馬鹿げたことだなあと思います。

なぜ馬鹿げたことなのか? それは、「そんなこと知って何になるの?」という問い自体が愚者の問いであるからです。

例えば、無知な人と自然豊かな地を歩いているとしましょう。

「木には落葉樹と常緑樹があって、落葉樹は秋に葉が落ちるけど、常緑樹の葉は何年も持つんだよ」
「ふーん。でもそんなこと知って何になるの?」

「針葉樹と広葉樹があって、針葉樹は葉が針のように細長いんだけど、たいてい常緑樹なんだよね」
「ふーん。でもそんなこと知って何の役にたつの?」

「両生類って、魚と爬虫類のあいだでさ、子どもんときはえら呼吸で、大人になると肺呼吸だよね」
「で、それを知って何の役にたつの?」

「ニュースでやってたけどさ、魚にもさ、右利き、左利きってあるらしいよ。左利きだと危険が迫ったとき左回りに逃げるんだって」
「そんなこと知ったって意味あんの?」

万有引力ってさ、どういうものでどう計算されるかは分かっているけど、そもそもなんでそういう引力が発生するかっていうのは、まだ分かってないんだって」
「分かったらなんか役に立つの?」

「人の精神って、脳細胞の生理学的な電気活動から起こるんだけど、電位差で精神が浮かび上がるっていったいどういう仕組みなんだろうね」
「知らないけど、知って何になるの?」

「日本語でさ、『私は彼に殴られた』とは言えるけどさ、『その本は彼に書かれた』って言えないよね、『彼によって』なら言えるけどさ。不思議だよね」
「ていうか、そんなこと知って何になるの?」

もしこのように「そんなこと知って何になるの?」という問いが人類の行動原理を支配していたとしたら、この世界はどうなっていたでしょうか?

それはもう、獣ですよ。人間の世界じゃない。

知とは、知ること、そのものです。この一瞬前に知らなかったことを次の瞬間に知っている、この瞬間の積み重ねに人間の知性が宿っているのです。「愚者の問い」が蔓延するとなれば、それは人類にとっても危機的なことであります。このことを今一度確認し、研究者の本当の「説明責任」は何なのか、取り違えないようにしなければならないと強く考える昨今です。*1

*1:しかしいくら「知ること」自体が「知」であるとはいえ、その知見が大きな学問体系の中でどういう位置づけにあるのか説明できないのではイクナイと思いますが。