文化に対する懐の広さ、狭さ/政策的現実主義/アメリカでの免許更新

テキスト庵経由でブログに反応。

文化に対する懐の広さ、狭さ

江草 乗の言いたい放題」さんは、まともなことを言っているときとまともじゃないときが3対7ぐらいの割合なのだけれども、今回の「JASRACはヤクザよりも悪質です」はまともなので是非皆さんに読んでいただきたいですね。

オレはテレビを持ってないなりにお笑いは好きなので、最近M-1グランプリのDVDを片っ端から購入して観ているのですが、観ていて非常に腹立たしいのが(M-1のDVDを買った人は全員が同じ思いだと思いますが)、替え歌やら鼻歌やらが「著作権上の理由」で編集でカットされていること。

ほとんど検閲ですよ、これは。文化に対する冒涜だ。音声がとぎれとぎれになる漫才を観ていて、うすら寒い気持ちになった人は数多くいると思います。

結局、文化に対する懐の広さというものが皆無なんですね、ジャスラックは。文化の振興など、まったく考えていない。金を徴収することが至上命令であり、文化がいかに発展すべきかということに関してはまったく無関心などころか、むしろ破壊行為をやっている。

江草さんのところに書いてある事例を観ていると、そのうち、学園祭でバンド活動をやることも難しい時代が来るかもしれないなと思います。

政策的現実主義

柿柳さんのところの「ある教育論」に反応。あの書き方だとオレがピュアなリバタリアンのような印象を与えかねないと思いますが(まあ、それもカッコいいから別にいいんですけど)、オレの本質は「恥知らずなプラグマティズム」だと自分では思っています(ここで書きましたが)。

というか、結局、リバタリアニズム(究極的な自由主義)の本質的な精神を現実的なレベルで実現するには、なんでもかんでも自由にするよりも、ある程度の縛りがあった方が良いということをオレは考えています。結局、人間には向き不向きがあり、知能の低い高いもある。阿呆にリバタリアニズムは向いていません。また、人間の思考は過去に築き上げてきた文化・風土・習慣に縛られている部分があるわけで、急進的な政策をやったところで文化・風土・習慣にどのような副作用を持つのか、非常に見極めが難しい。ということで、オレは心情的リバタリアンではあるけれども、現実的には穏健中道です。

だから、教育再生会議が読書の時間を規定しろとか、ボランティアを義務化しろ(笑)とか言うのに対して、オレは「押しつけは良くない」という理由で反対したことはありません。むしろ、小中高の教育に、教育や規律のおしつけは必要だと考えています。それは、規則の功罪を教えるという点で、リバタリアニズムの教育とってむしろ望ましいものだからです。ただ、読書の時間は良いけれども、ボランティア義務化は教育再生会議の爺さんが考えているような効果は望めないんじゃないかと言っているだけであります。

また、教育再生会議が中央集権主義であることに関して、「国が地方行政や教育現場への介入」という点「自体」に問題があるとは考えていません。それよりも、国が積極介入することによって、その結果、地方行政や教育現場が萎縮したり、独自性を失ったり、はたまた、規則と現実の乖離(履修問題とか)が起こったりするのではないかと危惧しているのです。

実際、大学の現場にいると、大学運営の多くは「文科省の顔色を伺いながら」決定されていることに驚きさえ感じます。結局、「文科省がこうしろと言っているからそうする」ということで議論もなく決定されることが非常に多い。あるいは「文科省に怒られない範囲はどこまでか」を基準に決定されることが多い。「ここのこの制度はこういうふうに改革した方がいいのでは?」と意見すると、「文科省の縛りがどの程度までそれを許すのが不明だから、そういう改革はできない」と返ってくるんですよ。教育理念じゃなくて、文科省の縛りなんですよ。私立大学でもそうなのだから、公立の中学高校はもっとそういう感じでしょう。そんな教育のもとで生徒・学生に「自分で考える力」が育つわけがないでしょう。

「心情的リバタリアン」として、そのあたりはもっと改善の余地があると考えています。でも、別に「国は一切口を出すな」なんて思ってませんよ。そんなことをしたらかえって混乱が生まれるのは間違いないですから、「プラグマティスト」としてそういうシステムには賛成できないわけです。

アメリカでの免許更新

恐るべき人種差別社会@小説:科学者トホホ日記」さんの話を読んで、中西部にいるとそういうこともあるんだなあと、感心さえしたのですが。アメリカは海岸部ほどリベラルで、内陸部ほど保守的なわけですが、オレが8年あまり住んでいたマサチューセッツ州などではそういうことは少ないだろうなあと思ったりしますが、ないとも断言できないのがアメリカの恐ろしいところです。

ところで、それはまあ、そういうこともあるだろうな、という感じで読んでいたのですが、驚いたのが、小ネタですが、筆者のcia^o^さんがコメント欄で書いていた以下のこと。

運転免許証は私たちのような外国籍は、毎年更新しなければなりません。そのたびに職場の在職証明を含んだ3種類の法定書類の提出と2週間程度の審査機関が必要です。

えっ、毎年!? しかも審査!!?? びっくりです。アメリカは地方分権が発達していますから(フロンティアの国ですから)、州ごとに法律が違うわけですが、「外国人は毎年更新」なんて州があるんだとアメリカの多様性にあらためてびっくり。

なんでこんな小ネタに反応するのかというと、オレは去年の冬にアメリカの免許を更新したばかりだからです。ははは…。審査なんて一切ありませんし、必要なのは住所だけだし、そもそも外国人かどうかの区別もありませんし、更新は5年に1度だけで良いし。同じ国でもここまで制度が違うのもすごすぎ>アメリカ。

以上、3ブログに脊髄反応してみました。