ゴスフォード・パーク (2001) ★★★★

Gosford Park
director: Robert Altman
screenwriter: James Fellowes


ゴスフォード・パーク [DVD] これは二回観ないとだめな映画ですな。群像を描くのが得意なアルトマン映画ということで、山ほど人間がでてくる。時は1932年。裕福な貴族のウィリアム卿が郊外の邸宅に親戚を招待して鴨狩りが行われることになっていた。次々に到着する親戚の貴族たち、そのそれぞれに召使いがついている。邸宅に着くと貴族たちは階上へ、召使いたちは階下へと移動。かくして大きな屋敷に様々な人間模様が繰り広げられるのであった‥。

この話のおもしろみは、階上の貴族たちに黙々と仕える召使いたちが階下に移動すると一斉に階上の人間模様についてあれこれゴシップを共有するところ。階上と階下は別世界で不干渉という体裁ではあるのだけれど、階上は階下のことは当然興味がない。しかし、階下は階上のことに興味がある‥というより、それが世界のすべてなので、さかんに階上のことが話題になる。つまり、階上で起こっていることは階下にほとんど筒抜けなのであり(貴族たちにとって召使いは「路傍の石」にすぎないので、召使いがいても気にせず行動したり口論したりする)、よって、一見階下の上に階上が君臨しているようでいて、その実、階下は階上を内包しているのであります。その「逆転の構図」がおもしろい。また、階下の世界は階上の世界をのみこんでいるだけでなく、階下の世界独自の人間模様もあるので、非常に複雑な様相を呈している。

ちなみに、登場する貴族の数だけ召使いもいるわけで、この映画の人間の多さはすごいものがあるというか、一応、プロット的には「殺人ミステリー」ではあるのだけど、主眼はこの登場人物の人間関係を2時間かけてじっくり紐とくところにあるのです。アルトマンはこの映画をとったとき76歳だったんですが、まったく老いを感じさせない瑞々しい感性とまた〜りとしつつも軽妙なテンポで話は進み、飽きさせません。ただ、観賞する側は人間関係を追うだけで必死なんで、「こんなん、映画のありかたとして邪道ちゃうん?」と思いました、一回目は。

しかし、二回目観ると、印象が良くなりました。二回目を観ると、一回目観たときはわからなかった、特に前半における個々の人物の行動がどういう意味を持っていたのかがいちいち手にとるようにわかり、まずその「発見」がおもしろい。それにより、二回目の観賞では人間関係のダイナミズムがダイレクトに伝わり、それにただただ圧倒されました。

最初、登場人物たちはバラバラに登場します。それが物語が進むうちにそれぞれ自分たちの居場所を見つけ、人間関係の密度を徐々に濃くしていきます。そして、映画後半、映画スターの貴族、アイヴォア・ノヴェロがピアノを弾き、歌いはじめるところで一気に気密性が高まります。アイヴォアは映画俳優であり歌手なんですが、貴族にとってみれば俳優・歌手なんてものは平民の職業であり、軽蔑の対象。しかし、その異質な華やかさとモダンさに羨望に似た感情も隠せない。一方、「ポピュラーソング」はまさに召使いたちの世界に属するもの。彼らは一斉に、物陰に身を隠しつつも、その甘美な音楽を一音も聴きもらすまいと耳をそばだて、酔いしれます。「貴族だが芸能人」のアイヴォアの歌によって、別世界だった「階上」と「階下」が一体となる瞬間なのです。

映画開始時にはバラバラだった30人もの人間がこの瞬間を目指してじわじわと一点に集約していく、そのダイナミズム! 鳥肌が立つほどの見事さです。そして、一点に集約した人間模様は、殺人の発覚とともに花火のようにパアッと散っていきます。その先の急速な展開も見事の一言。具体的なことを書くとネタバレになるので書きませんけれども。

この映画の主人公はだれ?と問われると難しいのですが、個人的には、メイド長のウィルソン夫人(ヘレン・ミレン)の抑えた演技に「主役」の名を捧げたいと思います。終始冷徹だった彼女が終盤に、妹であるコック長クロフト夫人と観客にだけ観せるもろさ、嗚咽、そして涙。ここは今思いだしても胸がしめつけられます。

二度目観終わった今も「ちょっと人間が多すぎて忙しい映画だな‥」という思いはぬぐえませんが、76歳にしてこれだけの登場人物のどろどろした人間関係を軽やかに、ユーモアとペーソスをもって描ききるアルトマン監督の手腕には感嘆を禁じえません。