履修漏れ問題

巷を騒がせているこの履修偽装問題、多重な要因がからんでいてなかなかに奥が深い問題やね。耐震偽装などとちがい「XXが悪い!」と簡単に割り切れない複雑さがあるのであります。

しかし、究極的な問題は結局、「文科省や教育審議会やらは、現場の心理をまったくわかってない」というところに行き着くとオレは考えます。文科省やら教育審議会やらは、「理想」をもって、軽い思いつきを鶴の一声で実行しますが、ロクな結果に終わったためしがない。ゆとり教育しかり。今回の問題の裏に潜む週休2日制の強要や、家庭科や情報教育の必修やら、そういうのもそうですね。安倍が言っている寝言(「ボランティア必修化」)だってそうです。理想だけはご立派。でも現場の心理をさっぱり汲み取っていない。

現場の気持ちとは何か? 簡単ですよ。受験の競争から落ちこぼれたくないという気持ちですよ。すべては受験。

大学は受験科目を減らす傾向があり、そのことが批判される。しかし、受験科目が多いほど出願者が減るのが受験なのです。もちろん大学の方だって科目を減らしたくない。教養知識のしっかりした学生が喉から手が出るほど欲しいのはどの大学だって同じです。しかし、そういう理想論ばかり言ってられないのが少子化時代の受験なのであります。志願者が減る大学には悲惨な末路しか待っていません。

高校は履修もれ偽装で批判される。しかし高校だって少子化時代に淘汰が進みます。どの高校だって荒れたDQN高校になるよりは賢い生徒が集まる名門校になりたい。そのためには卒業生が何人どこどこの大学に入ったかの実績が必要です。必要なのにやれ週休2日にしろだの、ゆとりの時間をつくれだの、家庭科やれだの言われる。オレは大学関係者として、高校教育では社会科2科目ぐらいはしっかりやって欲しいと思う。でも、実際の受験で社会2科目を課している大学が少数派であるという実態の中で、履修漏れ問題が起こったのは、心理的にはよく分かります。実際オレの勤務校では社会1科目しか課してないし、社会科履修を1科目しか履修させなかった高校を勝ち誇ったように糾弾する気にはとてもなれない。

高校生は高校生で、当然の心理として、少しでも良い大学に入るなら、そして志望校が5科目入試の国立とかでなければ、当然受験科目に絞って勉強したいと思うでしょう。皆さんだって中間試験の前は授業中に内職して試験勉強したりしたでしょう。それと同じ心理ですよ。

「高校生には受験以外に学ぶべき大切なことがある」…そりゃそうですよ、理想的には。しかし、大学関係者も高校教員も高校生も、それぞれそれなりに必死なんです。その必死な気持ちを分からないで、安全なところで「ボランティアを必修にして心を育てなければ」と高みから言っても無駄ですよ。

そういう構図が分かれば解決策はおのずと見えてきます。つまり、受験に直接からめるような改革をやれば良いということです。今まではゆとりにしろ家庭科必修にしろ、受験度外視の改革だったから現場の意識とズレが生じ、歪みが出たわけです。

では具体的にはどうしたら良いのか。簡単なことですよ。アメリカ式に、入試を廃止したら良いんですよ。入学判定はセンター試験の成績、内申、エッセイ、課外活動を含めた履歴書でアドミッションオフィスが総合的に判断する。センター試験はアメリカのSATのように年数回実施し、全高校生5科目受験必須にすれば良い。大学個別の試験はないので皆まじめに文科省の指定した科目を勉強するでしょう。課外活動を入試判定に含めれば、アホの安倍が大好きなボランティアだって「自主的」に広まるでしょう。

ただ、こういう制度を採用しているアメリカにおいてさえ、受験戦争は熾烈であることを注意せねばなりません。もちろんエリート層はSAT程度の試験では差がつかないので、他の部分で差をつけようと必死になります。結果、「受験対策としてボランティア活動」などを行うといった歪みも出ています(もちろんSAT満点&ボランティア経験有り程度では超難関大学には入れませんが)。それほどに「受験」というのは高校生、そしてその親にとって必死にならざるをえないイベントなのです。

そこを分からずにうわついた理想論に基づく思いつきの改革をトップダウンで実行しても、また同じ問題の繰り返しになることは間違いないでしょう。