河本敏浩「名ばかり大学生」における大学批判・入試批判は(論拠は少し弱い気もするが)もっともである

さて、先日の「本田由紀『教育の職業的意義』は幻想か」に引き続き、「社会の中の大学を考える」シリーズ(と今決めた)第2弾として、今回は河本敏浩「名ばかり大学生 - 日本型教育制度の終焉」(光文社新書, 2009)を取り上げたいと思います。河本さんは社団法人全国学力研究会理事長、東進ハイスクール講師の方で、本田さんが「就職という枠から見た大学」を論じたのに対し、河本さんは「高校から見た大学」を論じています。

当該本は、本田さんほどの緻密な論考は提示されておらず、時に扇情的に過ぎるきらいもあり、特に「管理教育はいじめや援交を生む」という第2章は論拠が弱く、本全体の流れとしてもちょっと浮いていてどうかと思われますが、その他の章は、予備校講師として受験につぶさに関わってきた著者らしい視点があり、おもしろく、参考になりました。

論旨は、一言でいえば、「ゆとり教育が悪いとか高校生の学力が低いとか言われるが、本当の問題は大学教育であり、さらに、特に諸悪の根源とでも言うべきは大学入試制度である」ということになります。ぼくは当然この結論には100%賛同します。前回の「本田由紀『教育の職業的意義』は幻想か」でぼくは、結局、大学教育が学生をちゃんと訓練していないのが現在のシューカツの異様な現状を促進しているのだという結論を出しましたのですが、いっぽう入試については、これはもう、当ブログで昔から批判を続けていました。

ぼくはあまり自分のブログを読み返したりしないのですが、古い方から入試に関する自分の記述を拾ってみると。

大学入試もない方がいい。…オレは大学ごとの入学試験なんて教員リソースの無駄遣いだからやめるべきだと何年もまえからずっと思っているんだけど
(「試験依存やめようぜ(2005.10.9)」)

入試を廃止したら良いんですよ。入学判定はセンター試験の成績、内申、エッセイ、課外活動を含めた履歴書でアドミッションオフィスが総合的に判断する。センター試験はアメリカのSATのように年数回実施し、全高校生5科目受験必須にすれば良い。大学個別の試験はないので皆まじめに文科省の指定した科目を勉強するでしょう。課外活動を入試判定に含めれば、アホの安倍が大好きなボランティアだって「自主的」に広まるでしょう。
(「履修漏れ問題(2006.10.28)」)

大学個別筆記試験廃止、これしかないですよ。今だって個別大学筆記試験は無駄なんですよ。例えば英語の試験を考えてみましょう。毎年毎年、全国の700ある大学がそれぞれ異なる英語の試験を膨大な時間をかけて作成しているんですよ。それにどんな教育的意味・意義があるのでしょうか? ありません。皆無です。ただ、制度上の問題で、問題づくりをやめるわけにはいかないだけです。英語なんて上級・中級・初級と3種類ぐらいの試験を作れば全国の高校生の大体の学力は計測・差別化できるはずです。もしそれを年3回実施したとしても9種類の試験をつくればいいんです。しかし現状では何千種類もの英語の試験(一つの大学では何種類かの試験問題をつくりますから)を毎年毎年毎年毎年つくっては捨てる。意味ねー。

大学個別筆記試験廃止したら学力が低下するという心配もあるでしょう。でもそのかわり高校生は今以上に「大学へ行くことの意味」を考え始めますよ。「何を,どのように,何のために学ぶのか」…それを高校生に考えて欲しいなら、大学個別筆記試験をやめてしまうのが一番の近道でしょう。
(「履修漏れ問題3(2006.11.1)」)

二次試験を廃止すると、一次試験以外の要因(願書に添付する志望動機やエッセイ、推薦状、課外活動記録など)を評価する必要があるので、面接の必要性も含め、入試事務の仕事は一気に増え、当然人件費その他、予算を思い切って増やす必要があります。(中略)

予算も手間もかかるでしょうが、多次元的に高校生を評価するシステムこそ、「美しい国(笑)」実現のために必要なシステムなんじゃないの? そこにどーんと予算をつぎこみましょうよ。

まあ、入試廃止には現実的には非常に多くの問題があると思うけど、お偉いさんが雁首そろえてボランティア必修とか30人31脚とかトボケたこと議論する暇あったらこのあたりをなんとかしろよというのが本音です。
教育再生会議に不足している議論(2006.12.26)

はっきり言って、入試問題によって「どんな学生に来てほしいかという大学からのメッセージ」を送る時代は終わっているように思います。各大学が独自入試をやる「本質的な意味」はどんどん薄れていると思います。すでに「併願を防ぐ」とか「偏差値ランキングだけで志望校を決められると困る」とか、そういう本質的でない意味しかない。
(「「過去問」、17国公私大が相互利用 08年度入試から(2007.2.4)」)

オレは一般入試廃止論者なので、どんどん推薦を増やして行けばいいと思いますけどね。ただし、何らかの学力測定テストの受験を条件として。
(「偏差値操作?(2007.2.23)」)

とりあえず一般入試廃止。狭い日本、学力試験なんて一つで十分。あーほんと一般入試なくなって欲しい。推薦も、指定校なんてわけのわからん制度やめて、共通学力試験+評定+エッセイ、これで行けば良いのであります。
(「推薦しますか(2007.3.2)」)

…きりないのでこのへんでやめとこう。とりあえず、とにかく現在の試験一発による入試制度は本当に問題だと思っていて、しかもそれをあまり真剣に考えている人が少ないという事実に驚きを禁じ得ない状況なので、当該本を読んではっきりと「入試が変わらなきゃ教育は変わらない」と書いてくれているので嬉しくなりましたね。

では、以下、「名ばかり大学生」のおもしろいと思った点を紹介したいと思います。(以下敬称略)

本当に高校生の「レベル」は下がっているのか

「学生の学力レベルが下がっている」と言われるようになって久しいが、河本によれば、トップ大学の入試は例えば70年代に比べれば格段に難しく、それを無視して今の若者をひとくくりに「学力が低い」と批判するのはお門違いである(第1章「学力は本当に低下しているのか?」)。

二極化が本当の問題

本当の問題は、一部のトップ大学をめざす層以外が勉強しなくなったことだと河本は主張しています。

その原因の一つが、地方において「中堅大学」の層が薄いことが挙げられると河本は指摘しています(第4章2節「勉強をやめる高校生」)。ここはなるほどと思ったのですが、首都圏や近畿圏は、国立大学をあきらめても、中堅私大の選択肢がやまほどある。よって、トップをあきらめても、目標を下げて勉強を継続する動機が生まれる。しかし、地方においては、状況は異なる。「国立大学をあきらめた途端に、選択肢がなくなってしまう。…地元の私立は地方ゆえに偏差値序列が低く、よって受験勉強を求めない。つまり、国立に行かずに地元にとどまると決めた瞬間、受験勉強は必要なくなってしまうのである」(p.142)

で、ここが肝心だと思うのですが、問題は地方に中堅私大がないということよりも、そもそも「受験がなければ勉強しない」という、「入試ドリブン学習」(という言葉は使われてませんが)のシステムがいけないと河本は指摘します。そしてその元凶は「ペーパー試験一発勝負」の入試制度にあると河本は言います。

入試の成績より大学の初年時の教育の成果が大切

また河本は、九州大学前副学長の柴田洋三郎の以下のような言葉を引用します。

「本学での4年間9600人分の、高校成績・入試成績・初年度教育・専門教育の成績を、卒業時まで追跡解析した結果では、卒業まで選抜機能にもっとも働くのは、初年時教育だということです。つまり、入試成績がよくても初年時で伸び悩むと高い確率で専門教育でも良い成績を修められない。逆に、入試成績が低くとも初年時教育で伸びれば専門教育で上位に入る可能性が高い。(中略)

このことから、大学における学生の学習成果を規定するものは、一定学力水準さえあれば選抜成績や受験学力の差ではなく、入学初期に大学での教育により習得された学習能力である」

逆に言えば、大学での教育が機能しなければ、どんなに難易度の高い入試をくぐりぬける学力があっても腐っていくばかりだというわけです。河本によれば、70年代よりはるかに難しい入試問題を解いて入学してくる「エリート学生たちが、大学入学後にすさまじい勢いで勉強をやめている」とし、ここに「日本の教育の問題点が露わになっている」とします。

「教育効果」より「大人の都合」が優先する入試も問題だ

河本による引用ですが、「分数ができない大学生」の共著者である戸瀬教授は、慶應経済学部に数学無しの入試で入ってきた学生の学力の低さがひどく、

「数学ありの入試で入ってきた学生と、そうでない学生とでは、能力が違いすぎるので、クラスを分けないと授業が成り立ちません」

と言い、続けて、高校が予備校化して受験科目にない勉強を切り捨てて当然という風潮があることを批判し、

「普通に考えれば、経済学を勉強するのに、数学力が必要なのは当然なのですが」

と述べているとします。

河本はこれに対し、「慶應大学経済学部の試験科目で、数学が必修化される気配がないのが奇妙である」(p.154)とし、「この問題を解決する任は私たち[予備校や高校の先生]でなく、一義的に慶應大学経済学部の教員にある」(p.154)と述べています。

私大における入試科目数の減少は、志願者集めという目的と密接に結びついているのは大学関係者なら誰でも知るところです。そういった「大人の事情」が、大学に入ってからの「学びの事情」よりも優先している状況があるにも関わらず、「若者の学力が低下した」と批判するのは筋が通っていないと言うわけです。

大学入試一発勝負が高等教育の荒廃を生んでいる

結局、(1) ペーパーテスト一発で勝負が決まり、(2) いったん入ってしまえば勉強しなくても卒業できるという日本の大学のシステムが、高校生の「学び」に対する姿勢に対して非常に悪い影響を与え、そして「名ばかり大学生」を量産しているというのが河本の主張です。こうやってまとめるとごく当たり前のことのようですが、意外に真剣に論じられることのない問題でもあります。

河本は、これを改善するには、(1) 入り口を広くし、(2) 入ってから絞る、という欧米型システムが必要だと主張します。前述した「初年度教育」の教育効果を考えれば、このシステムは「極めて合理的だと言うことになる。入るための試験よりも入った後の教育の方が重要度が高いならば、とりあえず入れてしまう(乱暴だが)のも、まずは一つの手である」(p.174)ということです。

また、「学びたいと思った者を、とりあえず大学に入れるという方法は、大学入学の敷居を低く」し、副次的効果として社会人入学が増えて大学構成員の多様化が期待できるとします(p.174-175)。

誰がどのような改革をやるべきか

河本曰く「問題は学力論ではなく大学論なのである。まず議論の出発点を大学教育、あるいは選抜試験のありようから始めるべきなのではないか。小学校や中学校、高校を『改革』しても誰も踊らないが、大学入試が変われば、教育熱心な家庭は一斉に変化する」(p.196)

「だから、小学校や中学校、高校の小手先の改革はすべてやめた方がいい。改革など何もせず、勉強をしない子供に大人が一生懸命教えるということだけを念頭に置いて行動するべきである」(p.196)

とします。まさにぼくが常々主張していることと同じです。

河本は以下のように続けます。

「残念ながら私たちにできることは極めて少ない。現行の入学試験制度が少子化の進行によって実質的な機能を喪失するまで、何をやっても小手先の『改革』になるだけである」(p.182)

「教育にまつわる『改革』は多様に行われてきたが、結局、大本である大学入試制度は何も変わらなかった。いや変えられなかったと言ってよい。これを変えられるのは、唯一大学の教員だけである。歴史的に見て、大学自治に対する干渉は控えた方がいい。」(p.182)

コメント

河本さんは触れていませんが、ペーパー入試の大きな弊害は上記のようなことの他に、日本人の文章力、特に「書く力」が育たない、というところにもあります。記述や論述がものを言うのは一部のトップ校だけで、残りの「9割の高校生」にとっては、記述力を付けたところで入試には役に立ちません。だからやらないし、高校の先生も教えない。斯様に因果関係が大変明確な事柄であるのに、それを棚上げして「若者の日本語力はひどい」「まともな文章も書けない」と批判するのは、いわば天に唾するようなものです。こういう状況をつくり出したのは、結局大学であり、もっといえば大学入試なのです。

しかし、河本さんの「これを変えられるのは、唯一大学の教員だけである」というのは、どうだろうか。はっきりいって無理じゃね?と思います。

まず、近年の大学は、経営状況がギリギリで、とにかく志願者を減らさないように最大限の努力をすることでいっぱいいっぱいです。特に都市部ではどこの大学も、「近隣のライバル校」があり、受験生の奪い合いをやっています。特に私大は、受験日程がどこの大学と重なるかとか重ならないかとか、それだけで大騒ぎであります。ちなみに、授業料などが横並びなのも、「ライバル校」どうしで三すくみ的な状況にあるからです。財政が苦しいとか、大きな教育プログラムに投資したいとか、そういう理由で授業料を「ライバル校」たちよりも上げると、とたんに受験者が減るでしょう。それは許されない。とにかく、動けないんです。

そんな中、思い切った入試改革をやるというのはビジネス的に大変リスクが高い。大学関係者の多くは「今の入試制度は問題が多い」と思っています。しかし、リスクを考えると動けない。失敗したら誰が責任を取るんだということになってしまう。

さらに、毎年毎年入試問題を作成することでいっぱいいっぱいだということもあります。通常、大学の入試問題は、私大ならば、早ければ前年度の4月から作成を始めます。そして、10ヶ月かけて問題を、慎重に、慎重に作り上げる(それでもノーミスで作成を終えることは非常に困難)わけですが、もう、それだけで疲弊してしまうわけです。「入試を変えたい」と思っても、3月に入試が終わった、その翌月から次の年の入試問題を作り始めなければならないというサイクルの中で、いったい誰が抜本的な改革を先導できるというのでしょうか。もちろん大学の先生は他にも教育も研究も、そして大学運営関係の会議もこなさないといけないし、科研の応募やら科研の審査やら、自己点検やら、大量のペーパーワークもあるわけですから。

そう考えると、大学教員が現行の制度を積極的に変えるというのは非常に困難な状況だといわざるをえません。

ですからぼくは、この問題に対しては、文科省が旗降りをするしかないと思っています。もし文科省が「個別のペーパー入試はやめ! 学力考査はセンター試験で統一します! 入試にはセンター試験を使ったAOにすること!」と言えば、従順な日本の大学(トップ校を除く)は喜んで付いてきますよ。「〜すること!」という命令じゃなくても、「〜することを推奨する!」と言うだけで、(トップ大学以外で)なし崩しに個別ペーパー入試がなくなることが予想されます。

別に「大学自治への干渉」じゃないと思うんですよ(てか、今でもめちゃ干渉しまくってるし…)。センター試験(またはそれに類したもの)を「高大連携試験」と位置づけて、義務化するだけでいいんです。英数国理社の5教科を必修にすれば、基礎学力の向上にもつながるかもしれないし、いわゆる「世界史未履修問題」のようなこともおきない。センター試験は年に4回ぐらいやれば、現在の「センター試験狂想曲」もなくなるだろうし、良いことだらけです。もちろん、試験は今のセンター入試みたいに大学の先生を監禁して作らせるのではなく、国が専門のセンターを作り、専門の職員を雇って作成する。カネの問題は残るが、受験料を少し上げてもいいでしょう。

この「入試改革」と、前回に書いた、大学に入ってからの「教育の質の改革(学生をもっと鍛える)」を組み合わせれば、河本さんの言うように「名ばかり大学生」は減るかもしれないし、本田さんの言うように「教育の職業的意義」も向上するかもしれない。

かように考えるわけです。え? 「いつものおまえの主張と同じだろ」? そうですね。でもこの問題についてだけは何回でも繰り返したいと思っています。今後も。

次回(最終回)は、佐藤 孝治「<就活>廃止論」(PHP新書) を取り上げたいと思います。*1

*1:関連エントリ一覧です:高校と社会のはざま〜大学を考える(全4回)

  1. [http://d.hatena.ne.jp/ultravisitor/20100216:title=本田由紀「教育の職業的意義」は幻想か (2/16)]
  2. [http://d.hatena.ne.jp/ultravisitor/20100219:title=河本敏浩「名ばかり大学生」における大学批判・入試批判は(論拠は少し弱い気もするが)もっともである (2/19)]
  3. [http://d.hatena.ne.jp/ultravisitor/20100223:title=佐藤孝治「<就活>廃止論」から大学を考える (2/23)]
  4. [http://d.hatena.ne.jp/ultravisitor/20100225:title=高校と社会のはざま〜大学を考える:まとめ]