責任のとりかた

柿柳さんのところの「日本の伝統」で日本に自殺して責任を取るという伝統があるという話がありまして、「死んで責任」という文化は根強いのは確かですね。いや、死ぬというところまでいかなくても、「責任をとるという形」にこだわる伝統がある。ちょっといじめの問題とはズレますが。

実は今回、アメリカ出張で古巣を半年ぶり(って全然「ぶり」じゃない?)に訪れて大変楽しんだのですが、ホテルにいる間はテレビのニュースを良く見ていました。で、ちょうど地元の高校の事件で、数カ月前にレイプがあったトイレでまたレイプが起こったというニュースが報道されていました。警備を強化して学生証がないと高校に入れないようにすることを考えなければならないという警察のコメントが流され、高校生のインタビューでアホそうな高校生が「身の危険の問題だから、そういう警備体制になるのはやむをえない」などとしゃべっている映像が流れました。ニュースの概要はだいたいそれだけ。

さて皆さん、日本で同じ事件があったとして、それが報道されたとしたら、上に要約したアメリカでの報道と決定的に何かが異なるんじゃないかと思いませんか? てゆうかオレはそのアメリカのニュースを見ていて思いました。

「あれ、校長の謝罪記者会見がない!!」

1度ならまだしも、数ヶ月で同じトイレで2度レイプ事件があったんですよ。日本なら間違いなく高校の責任が問われると思いますね。そして、日本名物、関係者一同並んで深く頭を垂れて謝罪、その瞬間フラッシュがバシャバシャバシャと…そういう展開になるんじゃないかと。

ところがそのアメリカの報道では誰も謝っていないどころか、校長のインタビューさえなかった。警察が今後の対策を語って、高校生がインタビューされただけだった。まあ、レイプぐらいじゃ校長がでてこないほどアメリカは荒んでいるとも解釈できますが、それよりですね。

上の柿柳さんの話に戻りますが、どうも日本は「責任者でてこい!」の風潮が強いのよね。そう思わない? そして「責任者」は恥をしのんで公衆の面前で頭を垂れて謝罪し、それを国民皆が寄ってたかって吊るし上げて満足する。

問題は、吊るし上げた段階でカタルシスを得てスッキリしてしまうということね。おいおい、スッキリしていいんかいと思うんだけど。吊るし上げ文化といえば2chのニュー速なんかが代表例だと思うけど、感情的な「リンチ」は何も生まないのよ。上記のレイプ事件のアメリカの報道はあっさりしすぎていると感じたけど、日本だとねちっこすぎる。しかも不必要にねちっこい。

履修漏れ問題のときもすごい「吊るし上げ」が行われてびっくりしたけど、今度はいじめ自殺。もちろんいじめは大きな問題だけど、自殺すれば即原因はいじめで責任はそれを見過ごした学校にある…というような吊るし上げに走っている。いや、吊るし上げても全然かまわないんだけど、問題は、こう、ぐわーっと熱狂的に吊るし上げた結果、それで気持ちがなんだか満足してしまって、非常に短期間で問題が忘れ去られるだろうということが予測できることなんだよね。

とりあえず誰かが「責任」をとって切腹をする(=謝罪記者会見をする、引責辞任する、etc.)、そのお決まりのパターンの陰で忘れ去られる何かがあるのが恐ろしい。