続・意味のエクスターなリズム

前回のひらり〜・ぱっとなむの講演についていろいろ考えていて、考えがまとまってきたのでメモしておきたいと思います。

これは「意味が頭の中にある」(いんたーなりずむ)のか、「頭の外で決定する」(えくすたーなりずむ)のかの論争ですが、ここで一つだけ念のため、前者について注記しておきたいと思います。たとえば「お歳暮」とか「あいさつ」とか「先輩」とか「後輩」とか「アホ」とか、こういう言葉の意味を学ぶときに、それらの言葉が社会でどのように使われ、機能しているのかを学ぶ必要がありますよね。その意味では、ことばの意味は社会性を帯びており、「社会が意味を決定している」と言って良いかもしれません。強調しておきたいのは、「意味は頭の中にある」といういんたーなりずむの信奉者にも、この点を否定するものはいないということです。いんたーりずむの考えは、人間は、コミュニティーとの関わりの中で社会性も含めて言葉の意味を学び、学んだ意味を頭の中にことばの知識としてたくわえ、使うときはその知識にもとづいて意味を構築するという考えです。

さて、ぱっとなむは意味のえくすたーなりずむの代表的提唱者の一人です。その主張は単純化していえば要するに、「ことばの意味なんてものはアタマのなかにはないのだ」ということですが、しかし、前回のエントリで「意味はコミュニティーの中にあるのだ」と書いたのはあまり良くなかったというか、語弊があったかもしれません。ということで、ぱっとなむのえくすたーなりずむの主張をここに整理し、そのうえで反論を書きたいと思います。

まず、意味のえくすたーなりずむという時の「意味」とは何か、というところから始めたいと思います。ふれーげというたいへん有名な言語てつがく者・ろんりがく者によれば、言語表現の意味はSinnとBedeutungという二層からなるとされています。SinnとBedeutungのうまい訳語を知らないので、とりあえず論理学でメジャーな用語を流用して、前者をないほう、後者をがいえんと呼ぶことにします(ほぼ同じものなので)。

ないほうというのはものすごく乱暴に言えば言語表現についての心理的知識です。がいえんとは、心理的知識であるないほうが指し示す外界の事物です。たとえば、「現在の日本の首相」という言語表現を考えれば、「現在」、「日本」、「の」、「首相」のないほうから「現在の日本の首相」全体のないほうが計算できます。おおざっぱに言えば、発話時における日本という国の内閣府の最高権力者ということです。そして、その「がいえん」は何かというと、2007年10月6日現在でいえば、福田康夫という人間そのひとということになります。普通に考えれば、「現在の日本の首相」という言語ひょうげんを耳にすれば、まずないほうを計算し、がいえんに思いいたるという順番になると思います。つまり、ないほうによりがいえんが決定しているわけです。

  • ないほう → がいえん

がいえんは定義上頭の外側にあるものの、ないほうは個人の頭の中にある心理的知識であり、頭のなかにあるわけですから、ないほうががいえんを決定するという図式が成り立っている限り、意味というものは頭の中の存在する心理的なものと考えられます。これは意味のいんたーなりずむです。

これに異をとなえたのがぱっとなむで、彼によれば、

  1. 「ないほう → がいえん」が成り立つとすれば、「ないほう」が不変ならば「がいえん」も不変であることになる
  2. ところが、「ないほう」が同じでも「がいえん」が異なる場合を想定することができる
  3. よって、「ないほう」が「がいえん」を決定するとはいえない
  4. 意味は頭の中にはない

ということになります。つまり、彼はないほうが心理的存在であることを否定しているわけではなく、がいえんを決定する仕組みが、ないほうの及ばないところにあるので意味を心理的なもの、内的なものと考えることはできないと言いたいのであります。

では、「ないほう」が「がいえん」を唯一的に決定できない場合はどのような場合なのでしょうか。ここで出てくるのが、wikipediaにもある「ふたごのちきゅう」の思考実験です。

http://en.wikipedia.org/wiki/Twin_Earth_thought_experiment

これをごく簡単に説明すると…

  1. 我々が住むちきゅうとまったく同じふたごのちきゅうを考えてみます。このふたごのちきゅうはいわばちきゅうのどっぺるげんがーです。物理的にも同じ、歴史も同じ、住んでいる人も同じ、名前も同じ、時間の流れも同じ、土地も動物も植物も、とにかくなにもかもすべてが同じだと考えてください。
  2. ところが、一点だけ違いがあります。それは、水の化学的組成が、ちきゅうではH2Oなのに対し、ふたごのちきゅうではXYZである点です。この違いがありますが、両者の水はまったく同じ性質をもっています。透明な液体で、味も同じ、機能も同じ、使われ方も同じ、すべてがまったく同じです。ただ化学的組成だけが違う(H2O vs. XYZ)。
  3. さらに、時代を数世紀前、水の化学組成があきらかでなかった時代に戻してみます。このとき、ちきゅうのひとは水がH2Oであると知らないし、ふたごのちきゅうの人は水がXYZであることを知らない。
  4. この設定で、ちきゅうのオスカーさんの「水」ということばの心理的意味(つまりないほう)と、ふたごのちきゅうのオスカーさんの「水」ということばの心理的意味(ないほう)はまったく同じである。
  5. まったく同じないほうなのに、がいえんは異なる。つまり、ちきゅうのオスカーさんが言う「水」のがいえんはH2Oであり、ふたごの地球のオスカーさんの言う「水」のがいえんはXYZという違いがある。
  6. よって、まったく同じないほうでも、がいえんが異なる状況が生じている。がいえんの決定はないほうの及ばないところにある。
  7. 意味はないほうを超えたところにある=意味は頭の中にはない!

ということです。wikipediaに書いていることもここまでです。

オレが最初に当該論文を読んで、上記の部分を読んだときは、「はぁ〜?! 何言ってんの??」と思いました。ぱっとなむが「ことばの指すもの(がいえん)が環境によって変わる」ということを主張しているのかと思ったからです。ないほうが同じでもがいえんが環境によってが変わることがあるのはある意味当たり前のことです。特に、がいえんの決定が、発話が依拠する「世界」に依存すると明示的に考えるないほうろんりの世界では当然のことであります。極端な例を挙げれば、「あなた」という言葉のないほうは一定でも、状況によって「あなた」のがいえんが異なってくるのはあたりまえだし、それをもってして意味は頭の中にはないとするのは馬鹿げたことです。

しかし、ぱっとなむのポイントはそこじゃないのです。ぱっとなむにとっては「あなた」という言葉でもなく、さらに「液体」という言葉でもなく、「水」という言葉を俎上に乗せたことこそが重要なのです。オレ自身、これに気付くのにけっこう時間がかかりました。

「液体」という言葉と「水」という言葉は似ているようでいて決定的に異なる点があります。それは、「液体」は、内部構成や化学的組成に関係なく、特定の表面的な特性をもつ物質全体をさす言葉であるのに対して、「水」は特定の内部組成と結びついた言葉だからです。ですから、「液体」に含まれる物質はいくらでも拡大することができます。ちきゅうの科学者がふたごの地球を訪れてXYZを発見すれば、「液体」の集合にXYZを追加するでしょう。別の宇宙を探訪してあらたな液状物質UVWを発見すれば、「液体」の集合はあらたにUVWを含むことになります。これは「開かれた」カテゴリーなのであります。

しかし、「水」は違います。「水」はH2Oしかない。ちきゅうの科学者がふたごの地球でXYZを発見したとしても、それは「水に似て非なるもの」であって、「水」の集合にXYZが加わることはないのです。つまり、「水」は唯一的な真実と結びついた「閉じられた」カテゴリーであるのです。

そのことがなぜぱっとなむにとって重要なのか。これは上のwikipediaの説明を読んでもおそらくさっぱり掴めないと思います。さらに、はっきりいえば、ぱっとなむ自身のふたごのちきゅうの思考実験自体、ぱっとなむの本当のポイントを説明する例としてはあまり分かりやすいものではないとオレは思います。

ということで、もっと分かりやすい思考実験を挙げたいと思います。これはぱっとなむ自身が論文中にさらりと挙げているプチ思考実験をオレが少々脚色したものです。

  1. アルキメデスが「ふたごのちきゅう」に迷い込んだとする。
  2. アルキメデスは、「ふたごのちきゅう」の水(XYZ)を発見し、精査した結果、「これは水である」と結論付け、日記に書き留める。なぜなら、ふたごのちきゅうの水は、化学組成以外はちきゅうの水とまったく同じだからである。アルキメデスの時代には化学組成に関する知識も、組成を調べる手段もなかったので、アルキメデスといえども、ふたごのちきゅうの水とちきゅうの水の間に相違点は一つも見つけることができなかったのである。
  3. 時は下って2200年のちきゅう。クローン技術の発達により、アルキメデスの遺骨からアルキメデスの完全なクローンを蘇らせることに成功した。この復活したアルキメデスは、肉体も記憶も精神も人格も知性も、死の直前のものと完全に同一である。
  4. 2400年の時を超えて生き返ったアルキメデスは、科学文明の進展に驚きつつも、その知性は混乱することなく、科学発展の歴史を理解した。
  5. ここでアルキメデスは、ちきゅうの水がH2Oという化学組成であることを知り、さらに、ふたごのちきゅうの水は実はXYZであることを知らされる。
  6. このとき、アルキメデスは紀元前にふたごのちきゅうの水を指して「これは水である」と結論付けた言説を誤りだったと認めるだろうか?
  7. ぱっとなむは「もちろん喜んで誤りを認めるだろう」と言う。

さて、ぱっとなむなら、さらにこう考えます。

  1. この場合、紀元前のアルキメデスの「水」という言葉(もちろんギリシャ語)のないほうとがいえんについて何が言えるだろうか。
  2. もし、純粋にないほうからがいえんが決まるのであれば、紀元前のアルキメデスの「水」のないほう(心理的知識)にはH2OとXYZの区別はないのだから、紀元前のアルキメデスの「水」のがいえんはXYZを含んで良いはずである。よって、紀元前のアルキメデスの「これ(XYZ)は水である」という発言には何の誤謬もないはずである。
  3. ところが、水の組成はH2Oで、ふたごの水の組成がXYZであることを知った2007年のアルキメデスは、紀元前に発した「これは水である」という自分の命題が真ではなく偽であったと認めるにいたった。
  4. このアルキメデスは、自分の言葉のがいえんが、ないほうの力の及ばないところで決定することを認めたのである。ことばのがいえんは、個人の心理的知識であるないほうだけでは決定しないのである。
  5. 意味は個人のアタマのなかにはないのだ!

…というのがぱっとなむの主張のポイントです。

ぱっとなむによれば、「水」とか「金」とか「植物」とか「火」とか、絶対的と考えられる自然の真理が背後にある「閉じられた」語のがいえんについては、我々話者は、その最終判断を「専門家」にゆだねていると言えるのです。アルキメデスの例のように、死後に科学的発見により言葉のがいえんが改訂されたとしても、その改訂に従う準備があるというわけです。この意味で、意味は心理的・私的なもの(いんたーなるなもの)ではなく、外部的・公的なもの(えくすたーなるなもの)であると言える…とぱっとなむは主張したわけです。「あなた」のような直示的な語や、「液体」のような開かれた語ではなく、「水」という真理に直結した閉じられた語を選ぶ重要性はそこにあるわけです。

さて、ここからがオレ的な、いんたーなりすとからの反論です。「水」のがいえんの決定が、話者ではない、専門家にゆだねられているのが本当だとして、それによって「意味は頭の中にはない」と言えるのでしょうか?

まず、「個人の用いる言葉の意味が個人の頭の中にあるならば、その個人の頭の中にある知識のみでがいえんが決定されなければならない」という最初の前提が必ずしも正しいとは言えません。言葉のないほう(心理的知識)がファジーで不完全なのはある意味当たり前のことで、そこに多くの「留保的定義」が入っていたとしても不思議はありません。例えば、イモリとヤモリの区別が付かない人がいたとして、その人の「イモリ」という言葉のないほう(心理的知識)はどうなっているでしょうか。おそらく、

  • トカゲのような生き物。ヤモリと似ているが違いはあるようだ。細かいところは良くわからないしヤモリとの違いもよく知らないので、生物学的詳細は留保。

というようになっているはず。この「留保」の部分がいわば変数のようになっていて、外部に補われることがあると考えれば、ないほうからがいえんを決定する心理的プロセスの中に外界の知識を介入させることができるはずです。外界の知識が介入するという点だけで「ほら、意味は外界の力によって決定するだろ」と結論付けるのは乱暴だと思われます。

さらに、がいえん決定の際、ないほうの「留保」部分に、どのような外界知識の介入を許すかという決定権はあくまで発話者個人が持っています。「水」の専門的知識は、化学者にゆだねる人が多いかと思いますが、それにしたって、「留保部分に化学者の知識の介入を許そう」と決定するのは個人の心理的判断です。もし、狂った新興宗教を信奉する信者が「水は神の涙だ。化学者の言うことは悪魔の陰謀だ」と考えれば、この信者の「留保」部分には化学者の知識は介入してきません。ぱっとなむは「水」のがいえんは「時代や文化を超えた自然の真理」が究極的に決定すると考えますが、その絶対的真理ががいえんの決定に介入するためには、あくまで話者の同意が必要なのです。つまり、外界の介入も究極的には心理的判断のさじ加減一つでどうにでも転ぶものであり、心理的プロセスの一環であると言えるのです。

ぱっとなむの主張が意味のいんたーなりずむを否定することにならない理由は他にもあります。それは、がいえん決定に外界の知識が介在しないケースが世の中には山ほどあるということです。レイ・邪険ドフがぱっとなむの講演の後に質問していたのはそのことです。我々は「水たまり」という言葉を知っています。つまり、その言葉のないほうが何かを知っています。では「水たまり」のがいえんを決定する際に、専門家が介入する余地はあるのか? まずありません。「水たまり」のないほうを知っていれば、「水たまり」のがいえんは決定するわけです。また、「歩く」という動詞のがいえんの決定にももちろん専門家の知識の介入は必要ありません。そう考えると、人間の言葉には、がいえん決定の際に外界の知見の介入を必要としないものが非常に多くあると言えるわけで、逆に言えば、ぱっとなむの議論が適用できるような言葉は、人間の語彙の一部に過ぎないと言えるわけです(この点は邪険ドフとのやりとりのなかで、ぱっとなむ本人が認めていました)。一部の語で外界の知識が介入するからといって、「意味はアタマの中にはないんだ」と結論づけるのは飛躍でしょう。

我々は「水たまり」や「歩く」が何を意味するのか、心理的知識として知っており、それが何を指すのか、自分の中で判断できます。意味は「いんたーなる」な物であると考えるのがより理にかなっているのではないでしょうか。また、「水」の思考実験のように、がいえんの決定に個人の知識を超えた外界の知識が介入する場合があるといっても、ないほうに知識の「留保」があると考えて、それがラムダ演算子に束縛される変数のように働くと考えればいんたーなりずむが崩れることにはならないのではないか。さらに、がいえん決定においてどのような外界知識の介入を許すかは個人の心理的判断にゆだねられるのだから、このぱっとなむのケースもえくすたーなりずむを支持する証拠とはならないのではないか。

というのがオレが思ったことです。おわり。