しつこく映画デビルマンについて:牧村家考

どうもデーモンにとりつかれているようです>オレ。

映画は原作をいちおうはなぞっていて、ミーコとススムちゃんの扱い以外は、エピソード的にはだいたい原作どおりです。*1 しかし「原作に比較的忠実」というのはあくまで表層レベルの話なんですね。たぶん脚本家は原作の代表的っぽい画やセリフをランダムにピックアップしてちりばめ、その間を適当に想像でつなげたんではないかと思われます。

映画がすさまじく薄っぺらい最大の原因は、実は例の双子アイドルのせいではなくて(まあ、あれはあれでかなり薄っぺらさに寄与しているが)、主人公が居候する牧村家の描きかたにあると今のぼくは思っています。映画における牧村家は善意の象徴として、悪意の象徴である「牧村家(とその知人)以外の全人類」と対比されます。この設定自体がそもそも馬鹿げている。なぜ牧村家だけが悪意のかけらもない善の象徴で、牧村家以外は悪意に満ちた狂人なのか。まったく説得力がないんですね。そもそも牧村家の「善意の人々ぶり」が寒い。

  • コックの格好をした牧村家の娘、美樹がケーキを焼いている。主人公が「どうしてケーキなんか?」と問うと牧村父(宇崎竜童)が「君の誕生日だからだよ」と言う。するとコックの格好をした娘が「もう!サプライズにしようと思ったのに!」(←なら隠れてケーキ焼け!) 父は「てへっ」と舌を出し、肩をすくめ、新聞で顔をかくす。←今どき「新聞で顔をかくす」のがすごい。平和な家族団欒の描写にリアリティなさすぎ!!
  • いじめっこにより上腕部(原作では全身なんですが‥)の醜いケロイドを白日のもとにさらされ、ヘンなビーム(原作ではドロドロした液体だったはずですが‥)で地球儀を消し去ったミーコ。パニックになるクラスメート、かけつける警官、泣くミーコ。牧村娘は「川本さん、泣いてるじゃない! 心は人間よ! デーモンじゃない!」と力説。「泣いてる」だけで危険性がないというのはいかにも説得力がないんですが‥。しかもここでも、牧村だけが「善」で他の全員がひとりのこらず「悪」として描かれていることがまた偽善っぽさに拍車をかける。
  • 偶然主人公にデーモンのあざがあることを発見してしまった牧村父。牧村父は、「思春期の息子がエロ本を読んでいるところをつい目撃してしまったときにするようなバツのわるい表情」をしたあと、「君のことは信じている」。なんで牧村家の人間は根拠なく何でも信じるんだ!
  • すでに密告によるデーモン狩りやデーモンをかくまう者へのリンチが始まっていたころ。いったんつかまって逃亡してきたミーコをかくまう牧村娘。とりあえず食事をあたえる。牧村娘が牧村母(阿木燿子)に事情を話し、「川本さんを泊めてあげてもいい?」と問うと、母は二つ返事で「もちろんよ!」 ‥おいおい、終電なくなった友達を泊めるのとはわけが違うんだぞ! もうちょっと葛藤しろよ!!
  • ミーコをかくまっていることをかぎつけられた牧村家にデーモン討伐隊がおしよせる。「おまえらデーモンをかくまってるだろ!」とつめよられると、すでに逃がしたミーコをかばうつもりか、突然「デーモンは私です!」「いえ、私がデーモンです!」と「責任のかぶりあい」をする牧村夫妻。あ、あのなあ‥。善意の人というかただの馬鹿?
  • のち、群衆が牧村家をリンチしようといままさに牧村家に突入しようとするとき。「最期」をさとった牧村母は牧村父に「あなた浮気したことある?」と問う。牧村父は「なんだ、こんなときに。あるわけないだろ、おまえ一人だ」、牧村母「嘘でもうれしい!」‥‥ハァァァア????

かように、こいつらはあまりに嘘くさい、ある意味超人的な「善意の人々」として描かれているのです。だから、牧村家の外の「悪意の人々」との対立にまったく説得力がない。

原作ではですね、確かに牧村家は正義感の強い人々として描かれているが、それでも超人ではなく、普通の人々です。たとえばある場面では、長男がデーモンになってしまった町内のある一家を追放する集会に参加するよう、牧村家に回覧がきます。牧村母「あなたいってくださる」 牧村父「いやだな、おれは。そんないやらしいまねはしたくない。あすはわが身かもしれんのに」 牧村母「でもーいってください。こまります。いかないとそれこそうたがわれるわ」 牧村父「しかたないな‥。いやだとはいっておれんわけか」 ←これが普通の人間の会話でしょ? こういう葛藤が映画の牧村家には微塵もない。

また、映画では主人公がデビルマンだと判明しても牧村家の信頼はまったく動じることがありませんが、原作では、主人公が実はデビルマンだということがばれるシーンでは牧村家はパニックになります。牧村父は主人公にライフルを向け、主人公に恋していたはずの牧村娘は主人公に腕をつかまれて「おれを信じてくれ!」と言われても、「きゃああああああ!!」と恐怖の叫び声を上げるだけ。そりゃそうでしょ。恐しいですよ。どんなに善意や信頼関係があっても、相手が(少なくとも半分は)人間でなくなったモンスターだったと知って恐怖するのはあたりまえです。それなのに映画では「明君は人間よ! 信じてる!」ですべてが解決。あきれはてます。

原作漫画もドラマ的にはそうとうめちゃめちゃな部類に入ると思いますが、最低限のリアリティーがあった。だからこそそこに描かれている狂気が恐しかった。映画にはそういうリアリティーはまったくない。その責任の8〜9割ぐらいが牧村家にあるとぼくは思います。

そろそろデビルマンネタはやめよう‥。

*1:映画ではミーコがつかまってしばらくして逃亡したあとヒロイン的に戦うが、漫画では拷問されるシーンはあっても戦うシーンはない。ススムちゃんは映画ではミーコとともに最後まで生きのこり、希望の象徴となるが、原作では絶望の象徴。