Feel in my bones (8/20)を読んで思ったこと

Feel in my bones (8/20)を読んで思ったことをつらつらと。

kous37さんの書くものはかなり昔(前のハンドルネームのころ)からときどき読ませていただいていまして、昔は考えがいかにも硬いなあと思うことがままあったのですが、ここ数年は知見を広められた成果で論にしなやかやかさが加わり、読み応えがあります。

ただ、今回の一連のkous37さんの書き物を見ていると、kous37さんにしては詰めが甘いような気がして、思うことを書く気になりました。特に気になったのが以下の一節。

つまり、「社会主義国=理想国家」というバラ色のフィルターが跡形もなく消滅した今、左翼=社会主義と彼らが唱導するインタナショナリズム=平和主義とは単なる「お題目」に過ぎなくなっていて、説得力の根拠を失っているということがあるだろう。「平和勢力であるはずの北朝鮮」が実は「中学生を拉致する非道な破綻国家」であったという衝撃は、左翼陣営の人が考えている以上に強烈なインパクトを日本人に与えたのではないか。

おいおい、ちょっと待ってよ。「『社会主義国=理想国家』というバラ色のフィルター」「平和勢力であるはずの北朝鮮」を信じる人=左翼って、えらい狭い左翼の定義やなあ。さらに、

この事実が動かせない以上、左翼が若者を吸収できないのは当然だと思うし、「若者の保守化」は要するに敵失によって受け皿のない層がなんとなくそっちに流れているに過ぎないのではないかという気もする。

と、あたかも世の中には、kous37さんの考える化石左翼の他には保守しか受け皿がないかのような書いているけれども、それはどうかと。しかも狭い「化石左翼」に対する受け皿が「右翼」ではなくてもう少し緩やかな「保守」という広い枠組みをおいて論を敷いているところが我田引水的というかフェアじゃないと思いますね。

もっとも、右派の「保守」に対応するような緩やかな呼称でしっくりしたものが左派の側にあまりないのも問題なような気がしますが、ここでは仮に「リベラル」と呼ぶことにします。リベラルと言ってももちろん色々あるでしょうが、オレ自身がアメリカ型リベラルなので一応それを念頭において書きます。

kous37さんとオレは同じ大学出身だったと思うけど、オレの大学時代(1990年前後)にはkous37さんの言う狭い「左翼思想」を信奉している人はまわりにほとんどいなかったし、かといって右派も少数だった。つまり、緩やかなリベラルが多数派だったと思うし、たぶん今も母校(「母校」とは自分ではあまり思ってないけど…)はリベラルが数で言えば多いんじゃないかと思ってます、根拠ないけど。このあたりを度外視して狭い意味での「左翼」との対立のみに焦点を当てるのはポイントがちょっとズレているんじゃないかと言う気もしますね。

ただ、近年保守系言論の方が元気なのはその通りだと思います。しかしそれも、「ネット出現前の左翼言説が圧倒的だった時代」の反動である側面も大きいと思うし、アメリカでブッシュ政権が長く続いた影響も見逃せないと思う。だから、現在の保守系言論の「勢い」がこれからも続くかどうかというのは、本当に「これから」の展開次第だと思う。

保守派のイデオロギーは一言でいえば郷土や歴史というものに対する「ロマンティシズム」に基づいていて、その、「国際大会で日本を応援しよう!」という感覚に似た「わかりやすさ」は、強みであります。DQNにも分かりやすいし、反論者には「売国」「在日」という言葉を使えば終わりという側面があるので論理が苦手な人にも論を貼りやすい。

しかし保守の礎である「ロマンティシズム」は同時に弱みでもあります。

例えば、8/20のkous37さんの言説の中では、靖国神社に対する思いを語る部分が過剰なロマンティシズムに満ちていて、その他の部分の冷静な分析から完全に浮いてしまっています。「靖国神社が全国から参拝者を集め、慰霊の地になっているという現実が大事なのであって、あののんびりとした、北海道から沖縄までの方言が飛び交うゆったりとした雰囲気はほかに替えがたい物がある」とか「多分それは、行事のない時期に一週間連続して参拝し、境内を無目的的にぶらぶらすれば言いたい感じは分かっていただけると思う」といった言説は、こう言うと失礼かもしれないけれど、新興宗教の信者が本尊を祀る総本山に対して語る熱い言葉とどれほどの違いがあるのだろうかと思ってしまいます。

保守派のこの「感覚」は説明を超えたロマンティシズムであるのですが、問題は保守派がこのロマンティシズムを「日本人の心の礎だ」と無意識に信じてしまっているところです。もちろんそれは実は(うさたろうさんが遠回しに指摘しているように)虚構であります。そこに関して自覚的でないのが保守派の強みでもあり弱みでもあります。

国という概念はアプリオリに存在するわけではないのは言うまでもありません。ですから、国という概念をどう考えるかはイデオロギーの問題なのですが、保守派の人々の多くはそこをそもそも誤認し、国、そして国の文化という概念がアプリオリに規定されていると無批判に思い込んでいる節があります。

もちろん国をロマンとして捉えるのも一つの捉え方だと思います。それを否定するつもりはありません。例えば三島由紀夫は国、文化をロマンとして捉えたときの美をある意味極限的まで突き詰めて我々に見せてくれました。その「美」自体は実在的なものであったと思います。しかし、その前提、つまり「国はロマンでなければならない」という前提は実はアプリオリな真実ではなくイデオロギーに過ぎなかった。それに自覚的でなかったのが三島の限界(つまり自決という結末の限界)だったのではないでしょうか。

国はロマンという観点から切り取ることもできるが、もっと動的な創造の過程として捉えることもできます。「動的な創造の過程」がなければ「ロマン」が成り立たないという絶対的な事実と同時に、「動的な創造の過程」は「ロマン」に緩やかに縛られているという事実もあります。その両面性に自覚的になれば、保守派言論は現在の「反動的繁栄」を超えて将来に渡って広がりを見せることができるのではないかと思います。

もっともそうなるとリベラルとの差がどんどんなくなって行きますが。ただ、kous37さんの言論の変遷は、実はある程度までリベラル化の過程でもあります。もちろんオレの言論の変遷(あるとすれば)も保守化の変遷でもあると言えるだろうし、これもまた健全な方向性であると思います。

ちなみにオレ自身は首相の靖国参拝云々やA級戦犯云々ということより、靖国の存在自体にそもそも激しく否定的でありまして、日本人の魂のふるさとだなんて、ちょっと冗談はよしてよ、としか言いようがないんですが、その話はまたいずれ。