しつこいようですが、まだこの話題が続きます。次回ぐらいで終わりか?
今回のシリーズではオレは自分の立ち位置がどこにあるのかはこれまで極力書かないようにしてきました。次回あたりオレの立ち位置を表明して終わりにしたいんですが、今いちど土俵を固めておきたいと思います。
これまでシロウトなりに色々調べたり考えたりして書いてきたこれまでであるわけですが、前回までに書いたことを図にしてまとめると、ものすご〜く大雑把にとらえると以下のようになるんじゃないかと思います。
- 縦軸:経済統制をしない(厚生は国民の自己責任、税金による富の再配分に否定的、市場の監視に否定的、国営サービスに否定的)のが小さな政府で、経済統制をする(福祉・厚生に肯定的、税金による富の再配分に肯定的、独禁監視など市場の監視に肯定的、国営サービスに肯定的)のが大きな政府です。小さな政府を極端に進めるとアナーキズム(無政府主義)、大きな政府を極端に進めると社会主義・共産主義になります。
- 横軸:人の生の自由が政治的に守られるべきだと言う考えが左、伝統が政治的に守られるべきだと言う考えが右で、一般に左右の定義はこの軸に沿ってなされます。
点線で囲ってあるのはそれぞれのイデオロギーの「典型的な範囲」をあくまでオレの直感で示したものです。ちょっと間違った認識もあるかもしれません。
左上から反時計回りにコメントします。
左上
まず左上にあるのが古典リベラリズム=リバタリアニズムです。これは究極のリベラリズムでありまして、文化的にも経済的にも個人の自由が最大に優先される主義です。「自分のことは自分でやれ」「オレはオレ、他人は他人」ってことですね。福祉に否定的、文化への政治介入に否定的、政府の市場監視に否定的、ありとあらゆる政治規制に反対、完全自由主義です。福祉や銃規制などに否定的で小さな政府主義な点で右派主流に似ている一方、中絶規制、同性婚規制、麻薬規制などの生活文化統制にも否定的ですから、そのあたりは左派に近いという、「右往左往」的な観点から見るとちょっと不思議な位置にある考えです。クリント・イーストウッドが映画のイメージ通りにリバタリアンを公言しているのは有名です。
左下
横軸の左半分はリバタリアニズムも含めてすべて広義のリベラリズムですが、狭義のリベラリズムは、現在では普通左下の領域を指すと思います。政治による文化統制に否定的で、かつ、政治による経済統制に肯定的な領域ですね。古典リベラリズム(=リバタリアニズム)に対して、モダン・リベラリズムとかニュー・リベラリズムと呼ばれたりもします。(日本語の「新自由主義」はニュー・リベラリズムではなくネオ・リベラリズムを指すことが多いようです。ネオ・リベラリズムは新保守主義(ネオコン)と似た思想のようです…がネオコンとネオリベラリズム違いが今いちよくわからん!)
一般にリベラリストは「大きな政府」(福祉国家)指向ですが、資本主義にも肯定的な人が大半かと思います。資本主義(=資本家が賃金労働者を使用するシステム)に疑念を示すと、社会民主主義の領域に入り、否定すると共産主義の領域に入るかと思います。ちなみにノーム・チョムスキーはリバタリアンを自称していますが、資本主義にも否定的で、このあたり、こんな単純な図でははかりしれない奥深さがあると思われます。
右下
横軸の右半分はすべて広義の「保守主義」ですが(といっても、どこからが「右半分」なのかは白黒決められる問題ではありませんけど)、この(政治的)「保守主義」というのは「伝統の保持」を政治的に実現するという定義上、縦軸に関してどういうスタンスであるべきかという問題に関して論理的にははっきりしません。リベラリズムの場合、「純粋な自由」を求めると論理的にリバタリアン的な小さな政府指向になるし、「基本をそろえないと人の自由は実現できない」という解釈で考えると論理的に大きな政府指向になるということが言えます。しかし「保守主義」の場合、そういう論理的帰結はないんですよね。というのも、保守主義は「伝統の保守」という大枠での文化的な定義しかありませんから、個人の経済生活について政府がどう対応するべきかということに関しては無色透明であるわけです。少なくともオレにはそう見えます。
ただ、レーガン以降の傾向かもしれませんが、どうも「保守」と言えば「小さな政府指向」というイメージが強いように思います。そういうわけで、右下=政府による文化統制に是、経済統制にも是という領域はなんとなく空白っぽくなってます。しかし保守主義が大きな政府とイデオロギー的に対立するわけではありませんので、保守主義の点線はなんとなく右下部分にも広げておきました。オレ的理解の反映として。適当なこと言いますけど、自民党政権って小泉以前は基本的にこの右下領域にあったように思います。
右上
ということで、最近の趨勢としては、保守といえばこの右上の領域が中心である印象があります。政府による文化統制に是、経済統制に否という立場です。この中で、特に「小さな政府」を強く押し出す勢力がこのところアメリカや日本で大変強力になっているので、これに対して新保守主義(ネオコン)とか新自由主義(ネオリベラリズム)といった呼称が出てきました。この流れはレーガンやサッチャーが始め、ブッシュが受け継いでいます。
ただ、ネオコンを語る場合、「外交」という軸をはずして考えることはできません。つまり、上記の「縦軸・横軸」という二つの軸の他に「外交」という第三の軸を考えないといけないということですね。レーガン、ブッシュを見て分かるように、対外的には「大きな政府」を目指すのがネオコンの大きな特徴だと思います。その意味、中曽根も小泉も「ネオコン」とはちょっと違うと思うし、実際呼ばれていないように思います。「新自由主義」という言葉は、新保守主義から対外強硬主義を引いたものなのかなあとオレは漠然と思っているのですが、そうだとしたら、中曽根も小泉もネオコンシンパではあったけどネオコンじゃなくて新自由主義者だったんだろうと思います。安倍晋三はネオコンの臭いもするけど、いざ首相になったら小泉外交の範囲から大きくはずれることはないでしょうね、たぶん。
以上、長々とまとめを書きましたが、人のために書いているというよりは明らかに自分の理解を整理するために書いてるな>オレ。まいっか。次回はオレがどのへんに立っているのかを書いて、このシリーズは終わりにしたいと思います。