「塾は禁止」 教育再生会議で野依座長が強調

http://www.asahi.com/national/update/1223/TKY200612230248.html

政府の教育再生会議野依良治座長(ノーベル化学賞受賞者)が8日に開かれた「規範意識・家族・地域教育再生分科会」(第2分科会)で、「塾の禁止」を繰り返し主張していることが、同会議のホームページに掲載された議事要旨でわかった。しかし、再生会議が21日にまとめた第1次報告の原案には「塾の禁止」は盛り込まれていない。

この記事に関してですが、ノーベル賞受賞するほどの頭脳を持つ人が本気で「塾禁止」と言うわけないので、まあマスメディアお得意の「人の目を引きそうな発言を空気読まず抜き出し」なんだろうなと思い、教育再生会議のウェブサイトを見てみました。

※しかしどうして大手新聞は外部リンクを張らないんだ。外部文書を直接言及する記事ならリンク張れっちゅうの。検索が面倒なんだよ。

記事のベースとなった記事要旨は「開催状況」の中の第2分科会の第3回の議事要旨です。

文脈としては、生徒の地域連携活動計画である「放課後子どもプラン」に、通塾が障壁になるのではないかということをふまえて野依座長が塾禁止発言を出しています。まあ、確かに何回か繰り返して言っていますが、本気かどうかは微妙だと思うけどなあ。会議で極論を意図的に出して軽くブレーンストーミングするのはよくあることだし、オレも会議などでは「こんな極論通るわけがない」ということをむしろ安心感としてあえて極論を言うことがあります。野依さんもその程度の意図だったんじゃないでしょうかね。だから、asahi.comの「強調」「繰り返し主張」というのは、間違いではないけれども、ポイントがずれている気がします。

で、せっかくの機会なのでこの教育再生会議の議事要旨や資料をいろいろ見てみたんですが、議事次第の配布資料だけみると、トンデモだなと思う部分がいろいろとあるんですが、議事要旨の方は意外にまともです。安倍が自分のカラーを押さえてまでも、保守からリベラルまで多彩な人選をした効果が現れていると思います。

しかし、複数の議事要旨を読んでなお、教育再生会議の議論に決定的に足りない要素があるように思えます。そして、本気でないにしろ「塾禁止」という言葉が出てくるところにその問題点が象徴されているとオレは考えます。

教育再生会議の議論全般に決定的に不足しているのは(注:「不足」であって、完全な「欠如」ではない)、現場=親、子、教師の行動原理と、それと密接に関係する教育をとりまく構造的な問題の分析であります。「塾禁止」という前に、なぜ子は通塾するのか、なぜ親は子を塾・予備校に行かせたがるのか。もし通塾が問題ならば(本当に問題なのかは別として)、なぜ「現場」がそういう行動をとるのかを本気で考えないといけないわけです。これには当然受験を核とする構造的な問題があるわけですが、構造的な問題を放置して表面上だけ「禁止」したとしても、そのしわよせは必ずどこかに歪んだ形で出てくるわけです。

たとえ半分冗談だとしても、座長から「塾禁止」という言葉が軽くでてくるのは、そのあたりの問題認識のフォーカスがズレていることを示唆しており、そこを危惧します。

結局、教育理念や理想論の話中心なんですよ、議事要旨を読むと。読書をさせよう、ふるさとを学ばせよう、地域と連携しよう、放課後子どもプランをやろう、家族で食事をとらせよう、芸術にふれさせよう、奉仕活動・ボランティアをさせよう、30人31脚をやらせよう(←究極の馬鹿提案 by 浅利慶太)、などなど。

まあ、そういう理想や理念はいいんですけどね。でもね、教育再生会議で批判されている「ゆとり教育」だって、種類は違うが同様の理想・理念で決定されたものじゃないの? 「詰め込み教育、受験偏重では創造性や人間らしい心が育たない、ゆとりをもった、受験とは関係のない教育の機会が必要だ」ってことで導入されたんでしょ? それが「効果を生んでいない、勉強時間が減らされて学力低下を招いている」って言われているのに、それに上乗せしてボランティアやれ、30人31脚やれって押し付けてどうすんの?

結局、「現場」の気持ちを無視して理想論・理念論ばかり言っているから上滑りするんだよね。そこをちゃんと突っ込んで議論しろっつーの。

「現場」の気持ちとは何か。

親・子からすれば、当然「将来」のことですよ。一方では高齢化による若年層への負担増や増税、はたまたは評価制度による給料格付けの導入などがあり、他方ではニート、フリーター、非正社員、ワーキングプアが増加している現実がある。親ならば子がどのような進路を選ぶかというのはもっとも緊急な関心事であるわけです。現場からすれば、ボランディアだの30人31脚などと呑気なことを言っているのは安全なところにいる仙人どもの戯言にすぎないわけです。

一方、学校・教師に対するプレッシャーも増大する一方です。意図的にか教員バッシング、学校バッシングがマスコミで日常化し、生徒の権利主張は増大する一方。そんななか、少子化の荒波を乗り越えるには、生徒、そしてその親の「期待」に応える学校にしなければならない。その「期待」の大きな部分を占めるのが受験であるわけです。他方では政府からあれをやれ、これをやれとめまぐるしく要求をつきつけられる。お上の顔色を常時うかがいつつ(←これは大学でもそうです。文科省の指導に「ハイッ、すみません、ただいま善処しておりますっ」とふりまわされて行動しているのが現状です)、他方では生徒・親の期待に応えるように必死になる。そんな中でどうやって教育理念が育まれるというのだろうか。

例えばですね、学校は上からは「世界史必修だ、情報必修だ」と言われ、下からは「受験で一秒でも時間が惜しいのに、受験に関係ない授業に時間を裂くなんて!」という無言の圧力がくるわけで、その苦肉の策として偽装が起こったりする。

現在の教育システムに構造的な問題があるのは明らかなわけです。

そこを突っ込まずにあらたな「義務」を天からふりまいてもですね、そんなうまく行くわけないですよ。それは「ゆとり」がうまく行っていないことが証明しているでしょう。

しかし、議事要旨を読むと、教育再生会議もそういう問題認識がまったくないわけではないことが分かります。

ちょっと話を戻しますが、塾禁止の件。asahi.comの記事では、

JR東海会長の葛西敬之氏は「日本の数学のレベルは学校ではなくて、塾によって維持されている、という面もある」と反論したものの、事務局側は「公教育が再生されれば、自然と塾は競争力を失っていく。結果的になくなる」と同調、国際教養大学長の中嶋嶺雄氏も「野依座長のおっしゃったように塾禁止ぐらいの大きな提言をやらないと」と野依氏に賛同するなどひとしきりの盛り上がりを見せた。

とあり、「事務局側」が塾禁止に「同調」とあるけれども、議事要旨を読むと、以下のようになってます。

(野依座長)塾をやめさせて、放課後子供プランをやらせといけない。塾は出来ない子が行くためには必要だが、普通以上の子供は塾禁止にすべきだと思う。

(葛西委員)今は中学の受験が主体となって、学校のシステムがおかしくなったので塾が生き残っている。しかし、順番が逆で、塾禁止の前に公教育の再生が先である。

(中略)

(葛西委員)しかし、日本の数学のレベルは学校ではなくて、塾によって維持されている、という面もある。

(野依委員)それは学校がやるべきこと。もちろん学校は再生させなければならないが、その代わりに塾をやめさせる。そして、遊びだけではなく、文化・文芸を勉強する。

(事務局)公教育が再生されれば、自然と塾は競争力を失っていく。再生されれば結果的になくなる。再生が先にある。

とあり、むしろ事務局は「再生ありき」の葛西氏に同調し、再生に塾禁止を含める野依発言に否定的であると読めますね、オレには。

で、この匿名の「事務局」はさらに、

(事務局)入試をやめて、卒業試験にすれば塾はいらなくなるかもしれない。塾禁止が先ではない。

というように、(「卒業試験にすれば」といいうのが本当に解決になるかはともかく)教育の構造的問題にまで言及しつつ、塾禁止という制度的決着に否定的な意見を述べています。(やっぱり事務局、野依さんに同調してないじゃん)

このあと、議論は受験システムという構造上の問題についてひとしきり盛り上がり、野依座長の「塾禁止」という極論がうまい具合に議論を刺激したと言えます。

しかし、この第2分科会議は「規範意識・家族・地域教育再生」というトピックに絞っての会議であるので、「入試制度の話はこの分科会ではふさわしくないので、第3分科会で」という結論になります。ところが、現時点では第3分科会ではこのあたりの話がちゃんとされた形跡がありません。

結局、構造的問題があるということは教育再生会議の少なくとも何人かのメンバーには認識の上である(実は、野依座長にもその認識がはっきりとある…これについては次回ふれます)のだけれども、そちらにフォーカスが当たるということがないというのが教育再生会議の現状のようです。

それはおそらく、「美しい国」という理念的な特徴を押し出す安倍の意向に添うためにそうなっているんでしょう。「家族」とか「郷土」とか、そういうのを押し出したい、そういうことなんでしょう。

でもさあ、「ゆとり」が成功しなかったのに、「家族」「郷土」なら成功すんの? ちょっと甘くない?

※次回に続く。